浅い眠りの中で、悠理は夢を見た。
満開の桜の下、小さくて幼い清四郎が、真新しい制服を着て、にこにこ笑いながら悠理を見つめていた。
見覚えのある景色。 悠理がいるのは、幼い日々を過ごした、懐かしい幼稚舎。 時間は、入園式まで巻き戻っていた。
そこに、いるはずの野梨子の姿はなかった。 清四郎だけが、桜の木の下で微笑んでいる。
悠理はふと思い出す。
はじめて出会ったとき、清四郎が、野梨子ととても仲良さそうにしていたから、悠理は嫌な印象を覚えたのだ。
本当は、すぐにでも話しかけて、友達になりたかったのに。 意地になって、野梨子をからかってしまった。
でも、今日は、野梨子がいない。 誰に遠慮もいらず、変な意地を張ることもなく、清四郎の傍に行けるのだ。
悠理は、清四郎に向かって走り出した。 幼い清四郎は、両手を広げて、悠理を待っている。
広げられた腕の中へ、用意された胸の中へ。
悠理は、思いきりジャンプをして、飛び込んだ。
いつの間にか、清四郎は、逞しい青年へと成長していた。 大きな掌が、悠理の頭を撫でる。
悠理は、逞しい胸に顔を埋めて、大好き、と呟いた。
そう。悠理が気づかなかっただけ。
本当は、ずっと、ずっと―― 出会ったあの日から、清四郎が大好きだった。 心の奥では、彼の胸に抱かれる日を、ずっと待っていた。
風もないのに桜が散り、清四郎越しの景色が、桜色に染まる。 清四郎の吐息が、桜の花弁に乗って、悠理の上へ降り注ぐ。
―― どれほどの季節が巡って、何度桜が咲いても、僕はお前の傍にいますよ。
桜の花弁よりも優しい声が、耳朶を擽った。
薄紅色の花弁は、雨のように、絶えることなく悠理へと降り注ぐ。
清四郎と桜に包まれ、悠理は涙が出るほど幸せだった。
目覚めると、悠理は清四郎の腕の中にいた。 寝ている間に、彼のほうへ移動してしまったらしい。
空気の流れさえ眠りについた部屋の中で、規則正しい吐息が、悠理の髪をかすかに揺らしている。
耳を澄ましてみて、まだ雨が降りつづいていることに気づく。 そして、ふっと思い出した。 はじめて身体を繋いだ、真夏の昼下がり。
友人からセックスパートナーへと関係が変わった、蒸し暑い夕暮れ。 ようやく心まで結ばれた、静かな夜。
今と同じように、彼の腕の中で聞いていた、様々な雨音を。
今日の雨音は、さらさらと細やかに流れてゆく。
悠理は、生まれてはじめて雨が優しいと思った。 そして、この不器用な男が、どこか雨に似ていると感じた。
冷たいようで暖かく、容赦なく叩きつける激しさと、すべてを包んで潤す優しさを併せ持った、人を惹きつけて止まない、ただひとりの男。
だから、悠理は、雨が好きなのかもしれない。
夢と現の狭間で、ぼんやりとそんなことを考える。
だが、頭の芯は、睡魔に蕩かされたままで、思考はまったくまとまらない。 こうしている今も、先ほどまで考えていたことが、蕩けては消えていく。
朝が近づくまで、まだもう少し、時間があるようだ。 悠理は、夢の中でもしたように、逞しい胸に顔を埋めて、ふたたび眼を閉じた。
**********
二人が本物の恋人同士になったことは、すぐ万作と百合子の知るところとなった。
人目も憚らず抱き合うような、目立つ行為をしていた訳ではない。一緒にいる時間は急速に増えたけれど、心に余裕ができたぶん、昔のように互いの身体を貪ることはしなくなっていた。
両親に知れた原因は、大学に入ってから急に荒れた生活を送るようになった悠理が、目に見えて落ち着き、しかも、女らしい華やぎを放つようになったからだ。
問い詰められた悠理は、焦りに焦った挙句、清四郎に助けを求めた。
すぐに悠理のもとへ飛んできた清四郎は、万作と百合子を前にして、悠理とは真剣な交際をしていると宣言した。
悠理の両親は、つねづね清四郎を婿に貰いたいと考えている。それを嫌というほど思い知っていた悠理は、清四郎の宣言を聞いて、心臓が止まりそうなほど驚いた。
そんなことを言ったら、両親は狂喜乱舞しながら、すぐに婚約・結納・結婚の段取りを決めてしまう。当の本人たちの意思など、もちろん無視するだろう。
案の定、二人は喜びに湧き上がった。 しかし、清四郎は、そのまま諾々として流されはしなかった。
「僕たちが二人でやっていける自信がつくまで、お待ちいただけませんか?」
真剣に付き合っているからこそ―― 悠理を大事に思っているからこそ、色んなことをじっくりと考えながら将来を決めていきたいのだと、清四郎は説明した。
真摯な清四郎の態度に、暴走気味の両親も納得し、その場は無事におさまった。
清四郎が、ふたたび万作と百合子を前にして、強い意思を告げたのは、それから約一ヶ月半後のことだった。
―― 二人で一緒に暮らすことを、どうか許して欲しい。
夜はすっかり涼しくなった、晩夏のある日。
清四郎は深々と頭を下げて、悠理の両親に懇願した。
そんな清四郎の隣で、悠理も一緒に深々と頭を下げた。
ふたりとも学生で、清四郎は大病院の後継者であり、悠理は財閥の令嬢。 万が一、破局を迎えた場合、どちらの経歴にも大きな疵がつく。
特に、女である悠理には、致命的な疵になるだろう。 清四郎だけでなく、悠理も、どれだけ馬鹿な願いをしているか、重々承知していた。
だけど、悠理はどうしても清四郎と一緒に暮らしたかった。 だから、悠理はひたすらに清四郎と一緒に頭を下げつづけた。
―― 反対しても、一緒に暮らすのでしょう?
百合子が、苦虫を百匹くらい噛み潰したような顔をしながら、頭を下げる二人に向かって言った。
―― どれほどの覚悟を決めて私たちの前に現われたかくらい、貴方たちの顔を見ていれば分かるわ。
百合子は、うろたえる万作を横目に、好きにしなさい、と二人に言った。
その隣で、万作があまりのショックに放心していた姿は、忘れたくても忘れることができない。
悠理と清四郎は、そんなふたりに対して、さらに頭を下げることしかできなかった。
それから、急に毎日が慌しくなった。
両親との交換条件めいた取り決めが終わると、すぐに部屋選びが待っていた。夫婦の二人暮しを目的とした物件も、今まで悠理が暮らしてきた部屋よりずっと狭い。現状の環境を維持しようとするほうがおかしいと分かっていても、それなりの広さは欲しかった。が、その意見は、清四郎によって一蹴された。
何とか決まった物件は、新築ではなかったが、とにかくセキュリティが充実していて、広さも悠理が妥協できる程度はある部屋だった。
その後も、様々かつ雑多な契約に追われ、それこそ悠理は未知の連続に眼を回しそうになった。清四郎がいなかったら、悠理は部屋も借りられなかったに違いない。
清四郎は、浮世離れした金銭感覚を持った悠理に、世間で暮らすには何をどうすれば良いのかを、根気強く教えてくれた。すべて人任せで過ごしてきた悠理は、ガスや電気、電話料金を払わなければどうなるかなんて、それまで想像もしなかった。だから、世間の仕組みを聞いて、素直に驚いた。
「電気って、止められるんだね。どうやるの?」 「送電を止めるだけで済みます。」 「だから、それってどうやるの?」
「・・・電気を盗むのは知っているのに、どうしてそれを知らないんですか?」
そんな会話を積み重ねながら、二人は、一緒に暮らす準備を少しずつ、でも着実に進めていった。
そして、いよいよ荷物を運び込む日。
曇天の空の下、悠理は、仲間たちと一緒にマンションの前に並んで立ち、ふたりが新スタートを切る部屋を見上げた。
ねずみ色の空を背景に建つマンションは、黄色がかったクリーム色の外壁に覆われていて、改めて眺めてみると、何だか巨大なキャラメル箱みたいだった。
でも、ここは、本物のキャラメル箱とは違って、甘いキャラメルがいっぱい詰まっているわけではない。苦いものや、辛いもの、もしかしたら哀しい味のものも、あちこちに混じっているだろう。
でも、きっと大丈夫。 今の悠理は、失った恋に苦しみ、臆病に縮こまっていた頃の、弱い悠理とは違う。
辛い日々を乗り越え、愛する人を心から信じられるようになって、ずっと強くなった。
苦いものも、辛いものも、哀しいものも、ぜんぶ受け入れて、糧にする。
「いいマンションじゃねえか。」
マンションを見上げながら、魅録が呟いた。 悠理が魅録のほうへ視線を向けると、彼もこちらを見て、にっと笑った。
「入れ物は整ったんだ。あとは、お前ら次第だな。」 「悪い手本にならないよう、勤めますよ。」 魅録の言葉に、悠理ではなく、清四郎が答える。
「そうよ。あたしたちを一年も騙していた罪を、無罪放免にしてあげたんだから、そのぶん、きっちり幸せになりなさいよね。」
魅録の隣から、可憐が自慢の美貌を突き出して言う。 その、さらに隣では、野梨子が困ったように笑っていた。
「可憐もそろそろ落ち着いて、ひとりの殿方に決めたらいかがですの?」 「おう、そのときは、また俺たちが引越しを手伝ってやるからさ。」
両側から声をかけられ、可憐は大袈裟に眉を顰めた。 「煩いわね。あたしの心配をする前に、まずは、あんたたちでしょう?」
「ホントだよ。ある意味、魅録たちのほうが心配だよね。」 反対隣から声をかけてきた美童が、ふふん、と笑いながら、言葉を続ける。
「お互いを意識する前にヤッちゃった、どこかのお二人さんより、キスもまだしてないかもしれないオクテな二人のほうが、手がかかるかもしれないしさ。」
美童のせりふに、魅録と野梨子だけでなく、悠理まで赤くなった。 その様子を見て、可憐と美童はけらけらと笑っている。
「美童!あんまりふざけるな!」 堪らず悠理が怒鳴ると、美童は大袈裟に肩を竦めて、おお怖い、とおどけてみせた。
「ほらほら、ふざけている暇はありませんよ。雨が降り出す前に、荷物を運び込みましょう。」 いつものリーダー口調で、清四郎が皆を促す。
皆は、急かされるままに動き出した。
その様子は、高校時代と何ら変わりもなく、何だか悠理はとても嬉しくなった。
時が流れ、関係が変わっても、きっとこの友情は変わらない。
憎まれ口を叩いて、つまらないことで喧嘩をして、でも、困難に立ち向かうときには一致団結して、友人のために東奔西走して。
そんな、当たり前のようで、かけがえのない友情に、悠理は心から感謝していた。
きっと、彼らがいなかったら、今の悠理は、いなかっただろうから。
**********
本当に目覚めたとき、部屋は光で満たされていた。
見れば、閉まっていたはずの斜光カーテンが開け放たれて、薄いレースカーテンが、眩い朝の光を濾過していた。 寝返りを打って、手探りで清四郎を探す。
だけど、求める温もりは、すでにベッドから抜け出していた。 耳を澄ますと、ドアの向こうから、キッチンを使う音がした。
姿はなくても、清四郎の気配を身近に感じられる幸せ。 悠理は布団と一緒に丸まったまま、自然と微笑んでいた。
しばらくして、清四郎がコーヒーの芳香とともに戻ってきた。 寝たふりを決め込む悠理の額にキスを落とし、耳元で、おはよう、と呟いてくる。
それでも寝たふりをしていたら、Tシャツの裾から手が忍び込んできた。 目覚めたばかりの身体を弄ばれるのは、さすがに躊躇いを覚える。
急いで起き上がろうとした寸前、清四郎の手が、乳房ではなく、腋をくすぐり出した。 「ぎゃあっ!」
悠理は身を捩って清四郎の手から逃れようとした。が、残ったほうの手でしっかり押さえつけられてしまい、どうしても逃げられない。
「ぎゃははは!駄目、やめてぇ!」 悠理はベッドの中をのた打ち回りながら、必死に頼み込んだ。しかし、清四郎はまったく止めようとしない。
「狸寝入りを決め込む奴には、お仕置きが必要です。」 清四郎はそう言うと、今度は悠理の腰をくすぐりはじめた。 「うひゃあっ!」
あまりのくすぐったさに、悠理は悲鳴を上げて仰け反った。
清四郎は、悠理のあちこちをくすぐりながら、心から楽しそうに笑っている。
そんな意地悪男に、悠理も負けてはいられない。 悠理は身を捩って悶えながらも、一瞬の隙をついて、清四郎の足首を掴んだ。
「うわ!止めろ悠理!」 いきなり足の裏をくすぐられた清四郎は、くすぐったさに顔を歪めて、ベッドの上に転がった。 「まいったか!」
「まいったまいった。だから、そろそろ朝のキスをしてくれませんか?」 それまで悠理の腰や腋をくすぐっていた手が、ぴたりと止まって、背中に回る。
憂いを湛えた瞳で見つめられ、少しどきんとしたけれど、ここで甘い顔をしてやれるほど、悠理は可愛い女ではない。 「いやだよーん!」
悠理は、清四郎に向かって思い切りあかんべえをすると、ベッドから元気よく飛び降りた。
今日から、清四郎と暮らす、新しい一日がはじまる。
だからこそ、記念すべき日の景色を、しっかりと覚えておきたい。
悠理は、小走りで窓辺へと向かった。
朝日を吸い込んだレースカーテンを掴むと、思いっきり左右に開く。
途端に、真っ青な青空が、視界いっぱいに広がった。
「うわあ・・・」
明け方までの雨が嘘のような、青い空。 空気中の不純物が雨に一掃され、どこまでもクリアになった視界。
水色めいた、透明な空気が、動き出したばかりの街を満たしている。
悠理は窓を開けて、外の空気を思いっきり吸い込んだ。
雨の残り香を含んだ空気。ひんやりとしていて、吸い込むたびに、身体の中から綺麗になる気がした。
「悠理。」
声と一緒に、清四郎の温もりが、悠理を包んだ。 「おはよう、のキスは、してくれないのですか?」
振り返ると、ちょっと照れ臭そうな清四郎の顔が、すぐ近くにあった。 「ばーか。」
そう言いながらも、悠理は清四郎の首に手を回して、彼とくちびるを重ねた。
朝一番のキスが終わると、ふたりは見つめ合ったまま、クスクスと笑った。
「おはよう、清四郎。」
「おはようございます、悠理。」
もう一度だけ、触れるだけの軽いキスを交わす。
そして悠理は、清四郎の胸に凭れたまま、窓の向こうに広がる青空を見た。 雨上がりの空は、どこまでも澄み渡っていて、見る者の心まで綺麗にしてくれた。
清四郎が優しい雨ならば。 彼の降り注ぐ愛に打たれた悠理の心は、この空よりも澄み渡っているだろう。
悠理は青空を見つめながら、清四郎の胸に頭を摺り寄せた。
「悠理。」 ふと、清四郎が声をかけてきた。
「なあに?」 悠理は、空を見つめたまま、尋ね返した。
「悠理は昨日、雨の匂いが好きだと言いましたけど、僕は、雨上がりのこんな空も好きですよ。」
彼の優しい呟きを聞いて、悠理は眼を細めた。
心が、幸福に満たされていく。
「さて、そろそろ支度をして、引越しの片づけに取りかかりましょうか。まずは朝食を食べて、スタミナをつけましょう。」
清四郎に肩を叩かれ、悠理は振り返った。 「朝メシは、お前が作ってくれるんだろ?」
「冗談は寝グセのついた頭だけにしてください。もちろん悠理も一緒に作りますよ。」 「ええ!?今日くらい、お前が作ってくれよ!」
「最初から甘やかしたら、後々が大変ですからね。生活面に関してはスパルタでいく予定ですから、覚悟してください。」 「清四郎の鬼!」
「その鬼を好きになって、一緒に暮らしたいと望んだのは、どこの誰です?」 細い眉がひょい、と片方だけ吊り上がったのを見て、悠理は項垂れた。
清四郎がこんな表情をするときは、悠理にとって、ロクでもないことになる可能性大である。
だけど、そんな男と分かっていて、好きになったのだから、仕方ない。
清四郎に背中を押され、悠理は、しぶしぶ歩き出した。
そんな悠理を見て、清四郎は、穏やかに微笑んでいる。
彼の笑顔につられて、悠理からも自然と笑みが零れた。
ふたりの真新しい一日は、こうしてはじまった。
雨上がりの、どこまでも青く澄み渡った空が広がる、穏やかな朝に。
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