誰も住んでいない部屋の匂い。 うず高く積まれた段ボール箱の匂い。 今まで嗅いだことのない、引越しの匂いだ。
今日から暮らす部屋なのに、慣れない匂いのせいで、ちっとも落ち着かない。
だから悠理は、黙々と荷物の整理をする男の背中に抱きつき、この世でいちばん落ち着く匂いを思い切り吸い込んだ。
先ほどまで荷物運びに精を出していた男の身体からは、汗の匂いがした。 「何ですか、いきなり?」 男が面倒臭そうに振り返る。
僅かに眉を顰めた、不機嫌そうな表情さえ、堪らなく愛しい。 悠理は、彼の鼻のてっぺんにキスをして、へへ、と悪戯っ子みたいに笑った。
「・・・大好き。」 「そのくらい、知っていますよ。」 素っ気なく言われたのが気に喰わなくて、くちびるを尖らせてみる。
「そういうときは、僕も好き、って言うものじゃないか?」 悠理の台詞に、男はくすくすと笑声を漏らした。
「そのくらい、知っているでしょう?」 くちびるが触れ合い、ちゅ、と小さな音を立てる。 引越しの作業は、ちっとも進まない。
ふたりは、今日から一緒に暮らす。 この日を迎えるまで、色んなことがあった。 本当に、色々なことが。
彼が、悠理を愛していると言ってくれたときは、夢ではないかと疑った。
だから、心のどこかでは、今も夢の続きを見ているのではないかと疑っている。
キスが終わっても離れがたくて、彼の広い背中にくっついていた。彼のほうは、苦笑いしつつも、悠理の好きなようにさせている。
そのとき、開いたドアの向こうから、ごほごほと、わざとらしい咳払いが聞こえた。 振り返ると、観葉植物の鉢を抱えた美童が、ドアの先に立っていた。
「嬉しいのは分かるけどさ、ベッドルームでベタベタするのは、僕らが帰ってからにしてくれない?」
意味ありげな視線で見下ろされ、悠理は慌てて彼の背中から離れた。
隣のリビングルームからは、引越しの手伝いに来てくれた友人たちの声が聞こえてくる。
清四郎から離れて、リビングルームに顔を出す。皆、荷解きに忙しくて、悠理を振り返ろうともしない。
一緒に暮らそうと決めたとき、双方の親に、自分たちで出来ることは、すべて自分たちでやっていくと約束した。だから、引越しにも金をかけたくなかった。友人たちは、そんなふたりの事情を知って、わざわざ駆けつけてくれたのだった。
オーディオセットをセッティングしていた魅録が、導かれるように空を見上げた。 「とうとう降ってきたな。荷物を運び込んだあとで良かったぜ。」
誰に話しかける訳でもない呟き。しかし、その声につられて、キッチンにいた可憐と野梨子も、手を止めて、窓の向こうを見た。
荷解きの音が止み、沈黙の隙間から、雨音が滑り込んでくる。 窓の向こうは、しとやかな雨にしっとり濡れていた。
悠理はリビングルームを横切ると、窓を大きく開けて、ベランダに出た。 深呼吸をして、雨の匂いを胸いっぱいに吸い込む。
「あたい、雨の匂いって、好きだな。」 彼にはじめて抱かれたときも、その次も、そして想いが通じたときも、雨が降っていた。
雨の匂いは、彼との想い出に繋がっている。 だから、ふたりが一つ屋根の下で暮らしはじめる日に雨が降るのも、自然なことに思えた。
「僕も、雨の匂いは好きですよ。」 いつの間に近づいてきたのか、すぐ後ろで彼の声がした。 背中に感じる、彼の気配。
悠理は雨を見上げたまま、彼に話しかけた。
「なあ、清四郎。雨の匂いってさ、優しいと思わない?」
彼―― 清四郎は、答える代わりに、悠理の髪をくしゃりと撫でた。
『たとえば、雨上がりの空。』
By hachiさま
ふたりがいわゆる肉体関係を結んだのは、今から一年と少し前のことだ。
心より先に身体を繋いだのが、そもそもの間違いだったのかもしれない。
けれど、あのときは、そうするのが当然だと思っていた。それが間違った関係だなんて、微塵も思わなかった。
あとで、気が狂わんばかりに辛い想いをするなんて、そのときの悠理に分かるはずもなかった。
清四郎に特別な感情を抱きはじめたのは、身体を繋ぐようになって、すぐだった。
だけど、身体だけの関係ゆえに、想いを言葉にすることはできなかった。 悠理は、切ない恋情を悦楽にすり替え、自分の気持ちを誤魔化しつづけた。
清四郎のすべてが欲しくて、とにかく欲しくて、だけど想いを言葉にできなくて、鬱屈した感情のすべてをぶつけるように、身体を求めつづけた。彼の腕の中にいるときだけは、辛さを忘れて、幸せな気持ちでいられた。
だけど、そんな日々が長く続けられるはずもなかった。
卒業間近のある日、悠理は、清四郎の気持ちが分からなくなり、自分から逃げ出した。 だけど、逃げたところで、何の解決にもならなかった。
悠理は、清四郎が恋しくて、恋しくて堪らなくて、数え切れないほど泣いた。清四郎を忘れようとすればするほど、涙は溢れてきた。いくら遊び回っても、涙は止まるどころか、余計に溢れてきて、もう、悠理にはどうすることもできなかった。
清四郎と別れていた四ヶ月の間に、悠理は一生ぶんの涙を流したと確信している。
だから、清四郎が好きだと告げてくれたときは、張り詰めていた心の糸がぷっつり切れて、子供みたいにおんおんと声を上げて泣きじゃくった。
そのときは、嬉しさよりも、これで辛さから逃れられる、という気持ちが強かったのかもしれない。
ようやく清四郎を手に入れたと実感したのは、そのあとである。
**********
友人たちは、賑やかな夕食を囲んだあと、ふたりの新居を辞去して、それぞれの家へと帰っていった。
友人たちが去ると同時に、雨音が大きく響くようになり、静けさが室内を支配した。
悠理は、梱包を解いたばかりのソファに寝そべり、クリーム色の天井を見つめてみた。
まだ見慣れないけれど、この無愛想な天井も、新しい生活のうちのひとつかもしれない、などと、似合わない感傷に浸ってみる。
でも、やっぱり新生活がはじまることにリアリティーを感じない。夢の中にいるみたいな感覚が、ずっと続いている。
いや―― 夢の中にいるみたいな感覚は、清四郎に好きだと告げられた、あの瞬間から続いているのかもしれない。
ぼんやりと天井を見上げていたら、きし、とソファがきしみ、踵あたりのスプリングが沈んだ。視線を動かすと、悠理の足元に座る清四郎の姿が、そこにあった。
「疲れましたか?」 「少し。」
答えながら、清四郎のほうへ頭を上げる。清四郎は、優しい笑顔で悠理を見つめてくれている。ただ見つめられているだけなのに、胸いっぱいに幸福が広がっていくのを、悠理はしみじみと感じた。
「やっと、はじまりましたね。」 短いながらも、万感の想いを籠めて、清四郎が囁く。
悠理はそっと手を伸ばして、清四郎の頬に触れた。少し冷えた感触が、掌に心地良い。 「清四郎と一緒に暮らすなんて、何だか凄く不思議な気分。」
「僕もですよ。」 優しい眼差しが、心を暖かく包み込む。
頬に触れていた手を滑らせ、頭を抱く。つるりとした艶やかな髪は、すぐに指先から逃げていく。清四郎の髪は、くせがない。だから、情事のときも、悠理がいくら掻き乱そうが、指に絡むことはなかった。
「・・・本当にはじまったんだよね?」 この幸せがどうしても信じられなくて、もう一度、男に確かめる。
清四郎は、くすり、と笑い、悠理の頭をゆっくり撫でた。 「もちろん。悠理がやっぱり嫌だと言っても、もう逃がしませんよ。」
ふっと沈黙が訪れる。 悠理の身体を知り尽くした男に見つめられ、下腹部が甘く疼く。 「・・・清四郎・・・」
悠理は清四郎の眼を見つめながら、甘く囁きかけた。 だが、清四郎が、悠理の欲しがるものをくれる気配はない。
「今日は早く寝て、明日に備えましょう。荷物の整理はまだまだ終わっていませんし、他にもやることは沢山ありますからね。」
あっさりと言い放ち、清四郎はソファから立ち上がった。そして、悠理を見下ろして、意地悪そうな表情で、にやりと笑う。
「明日からは料理の特訓がはじまりますから、覚悟していてくださいね。」 「鬼ぃ。」 悠理は不貞腐れて、頬を大きく膨らませた。
そんな悠理を見て、清四郎は、心から楽しそうに微笑んだ。
悠理が欲しくて、欲しくて堪らなかった、悠理だけに向けられる、満ち足りた微笑を。
**********
清四郎と決別してからの、辛い空白は、四ヶ月も続いた。
自分から離れたのに、いくら時間が経とうとも、心の傷はいっこうに癒えなかった。
金を湯水のように使って、遊興三昧の日々を繰り返しても、心は乾き切ったままだった。
何をしても楽しいと感じなかったし、ありとあらゆる美食も、まったく美味しいと思わなかった。
清四郎というオアシスを失い、乾き切って罅割れた心は、清四郎でなければ潤せなかったのだ。
いっそ、他の男に身を任せれば、諦めがついたかもしれない。
だけど、清四郎によって開発され、清四郎の感触を隅々まで覚えた身体は、他の男をまったく受けつけなくなっていた。
清四郎と決別し、大学生活をはじめたばかりの頃。
悠理は、新入生の歓迎会で知り合った先輩と、その夜のうちにホテルへ入った。だけど、その先輩に腰を抱かれただけで全身に悪寒が走り、結局、悠理は相手を張り飛ばして逃げ帰った。
その後も同じことを何度か繰り返したものの、それは、悠理の身体が清四郎しか受け入れられない事実を、悠理に思い知らせるだけだった。
身体だけではない。心も、清四郎以外の誰も受け入れられなかった。
毎夜、夢に見るのは、優しい瞳で悠理を見つめ、逞しい身体で悠理を包む、懐かしい清四郎の姿だけだった。
それが理由という訳でもないが、ようやく想いが通じたとき、悠理は迷わず清四郎と身体を繋ぐことにした。
心を繋げることを知らなかった二人にとって、もっとも原始的な方法で愛を確かめあうのが、一番の近道だったからだ。
雨がそぼ降る、初夏の夕暮れ。 薄暗いホテルの一室で、ふたりは愛の言葉を囁きながら、心と身体の両方を繋いだ。
それは、悠理にとって、今まで経験してきたどんな快楽よりも、激しく、深く、強烈な快感だった。
そして、それはきっと清四郎も同じだったのだろう。清四郎は、熱く猛った分身を悠理の体内に埋めたとき、うっすらとだが、確かに涙ぐんでいた。
涙を浮かべ、悠理を見つめながら、愛している、と繰り返す清四郎は、何だか救いを求めているように見えた。
あのときの清四郎は、悠理と同様に、ひたすらに相手を求めていた。
悠理は、そんな清四郎の腕の中で、干乾びた心が潤い、息を吹き返していくのを実感していた。
清四郎のことしか考えられなかった。
ひたすらに清四郎を求めることしか、できなかった。
だから―― 悠理と清四郎が、夜通し愛を確かめ合っている最中、友人たちが、行方不明になった自分を心配し、あちこちを駆け回っているなんて、これっぽっちも思いつかなかったのだ。
**********
ホテルの一室で、失神したまま寝入っていた悠理は、翌朝、何気なく携帯電話を見て、ぎょっとした。
着信履歴に、可憐と野梨子の名前が、ずらりと並んでいたのだ。
メールボックスのほうには、二人だけでなく、美童と魅録の名前も並んでいた。
マナーモードにしたままバッグに仕舞っていたから、繰り返されるコールにも、まったく気づかなかったのだ。
確かめてみると、清四郎の携帯も同じような状態だった。
友人たちが、如何に悠理を探しているのかは、メールを開かなくても、明白だった。
これには、さすがの悠理も青くなった。無論、清四郎も同様である。
一昨日、悠理は、偶然にも清四郎が女の子とデートしているのを目撃し、自棄になった。
泥酔するまで酒を煽って、何をされるのかを薄々知りながらも、嫌らしげな笑みを浮かべた男たちについていったのだ。
結局、すんでのところで清四郎が助けてくれたけれど、あのときの悠理は、明らかにおかしかったと思う。その翌日に、連絡もつかず行き先も分からない状態になったら、可憐たちが心配するのが当然だ。
これで二人が仲良く一夜をともにしていたのが発覚したら、友人たちは頭から火を噴いて怒るに違いない。
「どうせいつかは僕たちのことを話さなければなりません。ならば、いっそ今すぐ話して、楽になりましょう。」
裸のまま、ベッドの上で向かい合い、どうしようかと相談していた最中、清四郎が覚悟を決めたかのように、低い声で言った。 「本当に?」
悠理は眼を見開いて、まじまじと清四郎を見た。 清四郎は、いくらか疲れた表情はしていたが、冗談を言っているようには見えなかった。
「悠理は隠しておきたいのですか?」 「そうじゃないけどさ・・・」 いくらか躊躇って、悠理は言葉を続けた。
「どこから話すんだよ?一年前から?」 「・・・それが問題なんですけどね。」
清四郎は、寝起きの乱れた黒髪に指を差し入れて、深い溜息を吐いた。
「悠理を泣かせに泣かせた犯人が僕と知れたら、ただでは済まないでしょうね・・・」
結局―― 清四郎は、激怒した野梨子から往復の平手打ちを喰らい、怒髪天を突いた可憐からは、拳骨で殴られた。
連絡を受けた四人は、悠理の家へ飛んできた。
そして、寄り添う清四郎と悠理の姿を見て、一様に眉を顰めた。それは、どうして二人が寄り添っているのか、理解できない、といった風な表情だった。
ふたりは友人たちと向かい合って座り、昨夜はずっと一緒にいたことを告げた。 案の定、友人たちは、仰天した。
彼らにしてみれば、まさしく青天の霹靂だったに違いない。
さらに驚かせることになると知りつつも、清四郎と悠理は、これまでの経緯を説明した。
もちろん、場所を選ばず身体を繋いでいた事実は伏せたが、一年前から肉体関係がはじまり、四ヶ月前に悠理のほうから一方的に別れを告げて、それからしばらく絶縁状態にあったことは、正直に話した。
その結果、清四郎だけが、女たちから殴られたのだ。
それも、頬が腫れるほど、思いっきり。
一方の悠理は、頼もしい女友達に両側から抱きつかれ、なんて馬鹿な娘、と号泣されてしまった。
女の篤い友情に、悠理も思わず感極まって泣いてしまったけれど、その隣では、清四郎が頬を真っ赤に腫らしながら、憮然としていた。悠理にならともかく、彼女たちにまで殴られるのは、合点がいかなかったらしい。
男たちの反応はそれぞれで、美童は二人を値踏みするように眺め、まさか一年前からとはね、と意味深な口調で呟き、悠理を赤面させた。
魅録のほうは、逆に悠理を正視できないらしく、そっぽを向きながら、お前らが幸せならそれでいい、と不器用な祝福を送ってくれた。
その夜は、悠理の部屋にて飲めや歌えやの大宴会となり、全員が潰れるまで鯨飲した。
性質の悪い絡み酒と化した野梨子は、清四郎に向かって、悠理を幸福にすると誓いなさいと説教を繰り返していたし、チェーンスモークで人間蒸気機関車になった魅録は、まさかお前らがなぁ、としきりに嘆息していたし、紳士のはずの美童は猥談全開で馬鹿笑いしていたし、珍しく泣き上戸になった可憐は、泣きながら清四郎の背中をぽかぽか殴っていたし、今から考えれば、かなり見苦しくて恥ずかしい宴会だったと思う。
だけど、痺れを伴う酩酊の中で、悠理は喩えようもない幸せを感じていた。
そのときの悠理は、最愛の恋人だけでなく、最高の友人たちの愛にも包まれていたのだから。
**********
新居のバスルームは、悠理の家とは比べ物にならないくらい狭くて、二人で入るのはかなり無理のある大きさだった。
まあ、悠理にしてみれば、いくら裸を見せていようが、一緒に入浴するのはまだ恥ずかしいものだから、この狭さは好都合だった。
清四郎のほうは、ちょっと残念そうな顔をしていたけれど、こればかりは仕方ない。
一人ずつシャワーを浴びて、ダブルベッドへ潜り込む。
美童がプレゼントしてくれたペアのパジャマがあるけれど、それは部屋の整理がついてから使うことにして、今晩はそれぞれ愛用のTシャツを身につけた。
一日が終わる挨拶に軽いキスをかわし、ふかふかの枕に頭を預けた。
「おやすみ。」 「おやすみなさい。」
短い遣り取りも、やっぱり慣れなくて気恥ずかしい。
悠理は恥ずかしさを誤魔化すために、清四郎とは逆の方向を向いて、鼻まで布団を被った。でも、すぐ傍にある清四郎の気配までは誤魔化しようがない。
清四郎は、悠理が緊張していると知るはずもなく、行儀よく仰向けになって、規則正しい呼吸を繰り返している。
これからは、毎日、この呼吸音を聞きながら眠るのだと思うと、余計に緊張してきた。 一緒にいられるのは嬉しいし、とても幸福なことだ。
でも、その幸福ははじまったばかりで、どうしていいのか分からない。
どきどきしながら清四郎が身じろぐ気配を伺い、一人で馬鹿みたいに緊張しているうちに、悠理はいつしか眠りへと落ちていった。
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