Pain―― 真珠 BY hachiさま
清四郎と悠理の元に、小さな天使が訪れてから、間もなく二ヶ月になろうとしていた。
赤ん坊が誕生してからというもの、二人の生活は、百八十度と言って良いほど変化した。
まず、すべてが赤ん坊中心に回り出した。 新米の母親である悠理などは、それこそ二十四時間振り回されっぱなしだ。清四郎も、悠理も、勘当中の身であり、どちらの両親にも頼るわけにはいかないから、毎日がてんてこ舞いだ。
変わったのは、生活だけではない。時間も、精神も、その大半が愛の結晶に費やされた。それでも悠理は愚痴ひとつ零さず、楽しげに赤ん坊の世話をしている。
赤ん坊のほうも、幼いながらに、母親がありったけの愛情を注いでくれているのが分かるのか、悠理に抱かれているときが一番しあわせそうだ。
清四郎も、母子の繋がりは、子供が幼いほど深いと聞いたことはあったが、まさかこれほどとは思っておらず、感心を通り越して、たまに嫉妬を覚えるほどだ。 だが、幼いとばかり思っていた悠理が、一人前の母親らしく、しゃんと胸を張る姿は、清四郎よりも堂々としていて、やけに眩しかったし、清四郎の子供をその胸に抱くところを見たら、嬉しさのあまり涙ぐみそうになる。
清四郎は、幸せだった。 この、ささやかながらも至極の日常が、あの事件の上に成り立っていることのほうが、嘘のように思えた。
だが、あの事件は、けっして夢での出来事ではない。 それを思い出すたびに、清四郎の心に、暗い澱が漂う。
幸福に輝く悠理の笑顔と、喜悦と苦痛に歪んだ悠理の泣き顔は、表裏一体のものであり、どちらかを切り捨てることは、永遠に不可能なのだ。
この二ヶ月でぐんと大人になった彼女が、サイドボードに置かれたカレンダーを見て、ああ、と小さな声を上げたのは、よく晴れた日曜だった。
「もうすぐ一年経つんだ・・・」
その言葉が何を指しているのか、清四郎には、すぐに分かった。
そして、悠理の傷が少しも癒えていないのだと知り、胸が捻じ切れそうなほど痛んだ。
一年ほど前の、あの日。 清四郎は悠理に薬を盛って自由を奪い、陵辱した。
それは、女性にとって、惨すぎる行為だったろう。 清四郎は、愛ゆえに正気を失い、彼女に対して、常軌を逸した仕打ちを繰り返した。 性交の様子を写真に収め、穢れなき身体に、男の精を幾度も放った。 そして、脅迫じみた言葉で、愛の言葉を吐くよう強制した。
それは、男性経験のない悠理にとって、地獄の責め苦に似た体験だったはずだ。 だから、耐え切れなくなった悠理は、逃げようとして、清四郎を刺した。 殺意はなかったとはいえ、人を殺しかけたという事実は、悠理の幼い精神に相当の衝撃を与えただろう。
だが、それだけでは、済まなかった。 悠理は、幼さの残る身体に、自分を犯した男の子供を宿したのだ。
それからどれだけ辛い日々を送ったのか、どうやって憎い男を赦したのか、その間、自分であることを放棄していた清四郎には見当もつかないし、彼女の苦痛に満ちた心情を汲み取ろうとすることすら、清四郎には赦されないことのように思えた。 ともかくも、あの日から間もなく一年が経とうとしているのだ。
清四郎は、彼女の呟きが聞こえない振りをした。 悠理が、清四郎の贖罪など望んでいないのが、嫌というほど分かっていたから。
「悠理。今日のお昼は何にしましょうか?」 何気ない素振りで声をかけながら、振り返る。 悠理は母乳を与えたばかりの我が子を縦に抱いて、柔らかな背中を優しく擦りながら、うーん、と唸って、壁の時計を見た。 「今から作るのも面倒だし、出前で済ませようよ。」 時計は十一時を大きく回っている。育児に慣れない二人からしてみれば、食事の準備は恐ろしく煩わしい家事のひとつであった。だが、清四郎はともかくとして、悠理の食事を店屋物で済ませるわけにはいかない。 「出前なんて言語道断です。悠理が食べたものは、すべて母乳になるのですよ?こいつのために、ちゃんとした食事を摂ってあげないと。」 清四郎が片眉を上げて説教すると、悠理は大袈裟に顔を顰めて、腕の中の我が子に向かって、お前のパパは口煩いなあ、とわざとらしく話しかけた。 そんな妻の様子に、清四郎は呆れたように肩を竦めてみせた。 「分かってますよ。昼食は僕が作ります。ただし、味に文句はつけないで下さいね。」 「やった!清四郎、愛してる!」
明るく笑う悠理の顔には、一片の曇りもない。 晴れやかで、幸福に輝く笑顔だ。 だが、そんな笑顔を見るたび、清四郎の胸は痛む。
あの日―― 清四郎が悠理につけた傷は、永遠に癒えないであろうから。
悠理は、あの日のことについて、何も言わない。
小さな天使の存在も、あの日の証明と思わないはずがないのに、いつも聖母の微笑を湛えて、優しく見守っている。 穏やかに微笑めるようになるまで、どれほどの苦しみを味わってきたのだろう? 悠理に刺されたあと、清四郎は現実から逃避し、長い間、自分の殻に閉じ篭もっていた。 だから、悠理は、苦しみも、憎しみも、哀しみも、痛みも、ひとりで耐え抜いた。 たったひとりで、すべてを昇華させたのだ。
悠理は、何も言わず、清四郎を赦した。 否―― 最初から、赦していた。
胸の奥には、永遠に消えない痛みがあるだろうに、それでも彼女は、清四郎を赦し、共に歩む人生を選択したのだ。
だから、清四郎は未だに自分を赦せずにいる。 悠理の代わりに、自分自身を赦さないでいる。
それは、真っ白な幸福の中に、ぽつんと浮かぶ、暗い滲みのようだった。
そして、その滲みは、激しい痛みを伴っていた。
清四郎が作った野菜とソーセージの具沢山スープを平らげると、悠理は束の間の眠りに落ちた。小さな天使がミルクを欲しがる間までの、短い休息だ。 うつ伏せに眠る彼女の背を毛布で覆い、そっと寝室を出る。 リビングは、穏やかな午後の光に満ちていた。
携帯電話の着信音を消してから、メールを打つ。 返信は、すぐにあった。
―― 分かった。今晩には、回答できると思う。
短い文面を眼で追い、すぐにメール機能を閉じた。 顔を上げて、窓辺を見る。 レースのカーテンが日差しを吸い込み、静かに、白く輝いていた。 その先には、密やかな冬の情景が、優しげに広がっていた。
すべてが穏やかで、静かだった。
何故か、その光景に、涙が溢れそうになった。
それから数日後の、昼下がり。
肩を寄せ合い暮らす、小さな家族の上にも、穏やかな冬の日差しは降り注いでいた。
「悠理。」 清四郎が名を呼ぶと、悠理はすぐに顔を上げた。 傍らのベビーベッドには、お腹がいっぱいになって、満足げにくちびるを曲げた天使が、すやすやと眠っている。 清四郎はドアを開けた状態で、悠理をそっと手招きした。 「こちらへ良いですか?」 「なあに?」 悠理はきょとんとしながらも、清四郎のあとに続いて、リビングへと出てきた。
清四郎は、彼女をソファに座らせると、僅かな躊躇のあと、優しく微笑んだ。 「少しの間、眼を閉じていてくれますか?」 悠理は、大して訝しみもせず、素直に眼を閉じた。
その姿は、こちらが心配になるほど無防備だった。 清四郎を、心の底から信じているからこそ、悠理は素直に眼を閉じる。 思わず抱きしめたい衝動に駆られたが、ぐっと堪えて、ズボンのポケットの中を探った。
清四郎は、手に絡む鎖を、ポケットからそっと取り出した。
それは、数日前、可憐に頼んでおいた、悠理への贈り物だった。
悠理に似合うものを、というリクエストと、期日だけは絶対に守ってくれという注文に、可憐は忠実に応えてくれた。
つまり、これは、今日という日のために用意した、特別な贈り物だった。
ちゃら、と微かな音を立てて、細い鎖は、悠理の華奢な首に落ち着いた。 「眼を開けてもいいですよ。」 悠理はぱっちりと眼を開けて、すぐに首元へと手をやった。 「なに・・・ペンダント?」 鏡を探しているのか、きょろきょろと周囲を見回す。 清四郎が、予め用意していた手鏡を手渡すと、悠理はすぐに受け取った。 そして、鏡に映る白い粒を見て、わあ、と感嘆の声を上げた。
「綺麗・・・涙のかたちの真珠だぁ・・・」
悠理の喜びに合わせて、ティアドロップ型の真珠が、微かに揺れた。
「有難う、清四郎!」 悠理は喜びに顔を染めて、清四郎を振り返った。 「清四郎からプレゼントを貰うのは、これで二回目だね!」 「二回目?」 悠理にプレゼントをするのは、これがはじめてだ。清四郎が首を傾げていると、悠理は、ふふ、と笑って、ベビーベッドがある部屋に視線を向けた。
「そう、二回目。清四郎がくれた最初のプレゼントは、あいつ。」
はにかんだ笑顔は、一点の曇りもない、真の幸福に輝いていた。
その瞬間、清四郎は不覚にも涙を流しそうになった。
悠理は、忌まわしい記憶でさえも、瑞々しい心で包み込み、明るい未来へと繋いでいく。 明るい未来を信じて、前だけを見据えて、歩いてゆく。
清四郎は、くちびるを噛んで涙を堪え、悠理をそっと抱き寄せた。 腕の中の悠理は小さいのに、何故か、とても大きな存在のように思えた。
「・・・悠理。真珠の出来かたを知っていますか?」 清四郎は、ソファの上で悠理を抱き寄せたまま、小さな声で囁きかけた。 悠理は、清四郎の胸に顔を寄せたまま、頭を左右に振った。 「真珠は、貝が体内に入った異物から身を守るため、膜を作って異物を幾重にも包んでゆき、長い月日をかけて作り上げたものなのですよ。」 「異物・・・?」 悠理の問いに、微笑みながら頷く。 「そう。砂粒や、小石―― 人工では『核』と呼ばれるものを貝の中に入れて、真珠を作るのです。不思議ですよね。貝が、異物だったものを幾重にも包んで、こんなに美しい真珠を作り出すなんて・・・自然というものは、本当に偉大です。」 清四郎は、悠理の胸元で輝く真珠に触れた。 「異物が入り込んで、貝もさぞかし痛かったでしょうに。でも、貝は痛みに耐えながら、長い時間をかけて、誰もが羨望する宝を作り上げた。」 指を動かし、今度は薄桃色のくちびるに触れる。 悠理は無垢な瞳で、清四郎をじっと見つめている。
その瞳を真正面から見つめ返すことができず、清四郎はそっと眼を伏せた。
今からしようとしている告白が、彼女に必要ないもののように思えて。
「―― 僕は、ちょうど一年前の今日、悠理に、永遠に消えない痛みを与えてしまいました。」
悠理のくちびるが、小さく震えた。 「清四郎・・・!痛みだなんて、そんな・・・」 「最後まで話を聞いてください。」 悠理の瞳に不安が浮かんでいるのが見え、清四郎の心も痛んだ。 「僕が与えた痛みは、ずっと貴女の中に残る。だから、僕の心も、永遠に痛み続けるでしょう。」 清四郎は、一呼吸置いて、こう告げた。
「僕が抱える痛みは、僕が悠理を傷つけているという、痛みなんです。」
「・・・ちが・・・違う、違う・・・!」 悠理が必死になって頭を左右に振る。 清四郎は、彼女を安心させるため、細い肩を抱いて、そっと引き寄せた。 「だから、話は最後まで聞いてください。」 「だって・・・清四郎、あたいは・・・」 泣き出しそうな背を擦り、髪を撫ぜると、悠理は少し落ち着いた。
悠理が言いたいことは、よく分かっていた。 彼女は、清四郎を恨んではいない。それどころか、深い愛を注いでくれる。 だから、痛みに耐えるなど、彼女にしてみれば、当然のことなのだ。
悠理は、痛みすら愛に変えられる、稀有な魂を持っているのだから。
だからこそ、聞いて欲しかった。 清四郎がずっと隠してきた、本当の気持ちを。
「悠理、聞いてください。世間には、口さがない人たちや、他人の足を引っ張ることが好きな人たちが、大勢います。あの日の出来事を公表して、僕たちを陥れようとする輩もいるでしょう。そのたびに、僕たちは痛みを耐えなければいけないんです。これからの長い人生の中で、恐らくは、何度も。」
でも―― と、清四郎はつづけた。
「でも、僕は決して負けない。どんな困難が待ち受けていようとも、僕は必ずお前たちを守る。」
永遠に消えない痛みを抱えたまま、きっと。
「だから、悠理。これから先、何があっても、僕と共に歩んでくれると、約束してください。中心にあるのが痛みであっても、貝が真珠を作るように、幾重にも、幾重にも愛を重ねて―― いつか、真珠に負けない輝きを放つ歴史を、作り上げましょう。」
悠理の大きな瞳から、透明な雫が転がり落ちた。 濡れた睫毛の下で揺れる瞳を見つめながら、清四郎は、告げた。
「悠理。愛しています。あの日よりも、ずっと前から。そして、これから先も、永遠に、ずっと―― 」
消えない痛みを、幾重にも、幾重にも包んで。
いつの日か、永遠の愛を誇られるように。
「僕は、ずっと悠理を愛してゆきます。」
二人は、慈しみ合うかのように、優しくくちびるを重ねた。
あの日から、ちょうど一年目の、今日という日まで。
消えない痛みを包む、愛となるように。
==END==
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