『 月と甘い涙 』
「せーしろー、お腹減った〜」 「問題を解き終わったんですか?それが終わるまで食事はお預けだと言ってるでしょう?」 「いぢわる〜〜〜〜」 「文句言う暇があったら、さっさと問題を解く!」
毎度おなじみの試験前のお勉強風景である。
清四郎と悠理が付き合いだして、そろそろ3ヶ月になる。 仲のよい友人から甘い恋人同士へ。 二人の関係は変化しても、試験前ともなれば、「家庭教師と出来の悪い生徒」という立場には変わりはないようだ。
清四郎の部屋の大きな勉強机に向かい、悠理は頭を掻き毟りながら、清四郎作成の擬似問題に取り組んでいた。 その後ろで清四郎は椅子に腰掛け、悠々と読書に耽っている。 全く、いつもどおりの光景だ。
「出来た〜〜!」 やがて悠理が、バンザイをしながら宣言した。 「どれ…」 清四郎が後ろから覗き込み、採点していく。 左手を悠理の左肩に置き、右手に持った赤いボールペンをノートの上に走らせる。 自然に身体が寄り添い、後ろから抱きしめられるような格好になっていることに、悠理は気付いてドキドキした。 横目で見れば、至近距離に清四郎の端正な横顔がある。 男らしい眉に二重まぶたの綺麗な目、通った鼻筋。 少し薄めの形のよい唇がわずかに開き、悠理の回答を黙読している。
「55点、か。後で間違ったとこをもう一度やりましょう。…どうした?」 「な、なんでもないよっ!」
振り返った清四郎にいきなり問われ、悠理は真っ赤になって首をぶんぶんと振った。 どうやら、知らぬうちに清四郎の横顔に見惚れていたらしい。 清四郎はちょっと眉を上げて、怪訝そうに悠理を見ている。 だが、やがてなんともいえぬ優しい微笑を浮かべると、悠理の肩に置いた手に力を入れて引き寄せ、そっと口づけてきた。
一秒…二秒…そっと離す。 ただ唇を触れ合わすだけの、優しい口づけ。 悠理の瞳がとろん、と潤んだ。 そのままそっと、清四郎の肩に頭をもたせかける。 今までには、見られなかった光景。
―――好き、大好き。せーしろー。
心の中で、そう呟いた。身体がホワンと暖かくなる。 口に出さなくても伝わったのか、清四郎が悠理の髪に顔を埋め、何か囁いた。 「僕も……ですよ」 「ん……?」
「おーい、清四郎!いい酒が手に入ったぞ!悠理君も来てるんだろう?降りてこんか〜」 突然、階下から響いた声に、清四郎の声が掻き消された。 清四郎が舌打ちしながら悠理の頭から顔を上げる。 二人して顔を見合わせ、苦笑した。
「…食事にしましょうか?」 「うん!」
とんとんと、鼻歌交じりに階段を駆け下りていく悠理の後姿に、清四郎は小さく溜息を吐きつつ微笑んだ。 ―――まだ僕よりも、食事のほうが大事みたいですねぇ。 けれどそんな悠理の変わらなさが、清四郎は嫌いじゃない。 天真爛漫で、何物にも染まらない悠理が好きなのだから。
*****
「おっちゃん、久しぶり〜」 「お〜、来たか。さ、悠理君。座りなさい、座りなさい。」 清四郎の父、修平は既に一杯加減であるらしい。 悠理の姿を見ると嬉しそうに手招きし、日本酒の瓶を掲げて見せる。
「へへへ…いただきま〜す!」 「あんまり飲ませないで下さいよ。まだ勉強が残ってるんですから」 「そう固い事を言うな」 「姉貴はどうしたんです?」 「今日は大学のお友達と飲み会ですって。さ、悠理ちゃんの好きな天麩羅よ。たくさん食べてね」 「ん。ありがと、おばちゃん」
「素直でかわいい」とは言い難い息子と娘を持つ菊正宗夫妻は、素直で純粋な悠理をとてもかわいがっている。 食事は楽しく進み、いつしか清四郎も悠理もかなりの量を食べ、また飲んでいた。 それでも、酒には強い清四郎と悠理の事、酔っ払っているとまでは言えなかったのだが。
*****
「あ〜、食った食った!もうおなかいっぱ〜い」 食事を終え、清四郎の部屋に戻ると、悠理はソファの上にひっくり返った。 う〜っと大きく伸びをし、幸せそうに目を瞑る。 このまま寝てしまえたら幸せなんだけど…と思う悠理に、清四郎の甘くない声が飛ぶ。
「こらこら、寝ちゃ駄目ですよ。まださっきの擬似問のやり直しが残ってるでしょうが。夏休み中、補習に明け暮れたいんですか?」 「う〜、ちょっとぐらい食休みさせろよ。清四郎のケチっ!」
やだやだやだぁ、と手足をばたつかせる悠理に呆れながら、清四郎は悠理の足を払い除けてソファに腰掛けようとした。 その行為にむっとした悠理が蹴りを入れようと足を伸ばすが、そんな事は当然予測している清四郎である。 にやりと笑って悠理の足を掴み、勢いをつけて悠理をソファから落とそうとした。が……
*****
どすん! 二階から響いてきた鈍い音に、晩酌を続けていた修平は眉を顰めた。 「また何をやっとるんだ、あいつら…」 「さぁ…食後の運動で、プロレスごっこでもしてるんじゃないですか?しょうがないわねぇ」 清四郎の母は、いつものことですよ、と言わんばかりに微笑んだ。
「それにしても…ちょっと見ないうちに悠理君は随分と綺麗になったものだなぁ」 くっ、と盃を開けながらひとりごちる。 「前は男の子か女の子かわからんようで、清四郎といると兄弟みたいだったが」 あれではまるで…と続けようとした修平に、彼の妻がにっこりと答える。 「年頃の女の子というのは、恋をするとびっくりするほど綺麗になるものですわね」 「は?」 「お付き合いしてるんですよ。あの二人」 「……!」
思いがけない妻の言葉に、危うく盃を落としそうになりながら、修平は慌てて言葉を継いだ。 「し、しかし、それじゃちょっとまずいんじゃないか?」 「あら、何がですか?」 「いやその…年頃の男女を部屋に二人きりにさせておくのは…」 「まぁ、大丈夫ですよ。清四郎に限ってそんな…」 ころころと笑いながら、息子への信頼が厚い母はそう答えた。 母親と違い、品行方正とは言い難い息子の性格を良く見抜いている父は、黙って盃を煽った。
―――あいつだから、まずいんじゃないか。知らんぞ、ワシは……
*****
その頃、二階では修平が危惧したとおりの事が繰り広げられようとしていた。
ソファから落とされそうになった悠理は、持ち前の反射神経でとっさに起き上がると清四郎のシャツの襟元を掴み、見事に清四郎を道連れにしてソファの下へと転がり落ちたのだ。 「いてててて…くそぉ、重いぞ清四郎!」 悠理は落ちた拍子にぶつけた頭を擦りながら、自分の上に馬乗りになっている男に怒鳴りかけた。 「誰のせいですか、全く…」 言い返そうとした清四郎の言葉が急に途切れた。
「な…に?せーしろー?」 清四郎は、じっと悠理を見つめていた。 酒の為か、運動の為か。 はたまたその両方の所為か。 悠理の頬は軽く上気し薔薇色に染まり、瞳が誘うように潤んでいる。 くりの広いボートネックのカットソーから覗く白い胸元から、ほのかに甘い香りが立ち上ってくるような気がした。 そして、不安げに自分の名を呼ぶ唇の紅さに、清四郎の理性が途切れた。
「悠理……」 熱に浮かされたように囁くと、その唇を奪った。 軽くついばむようなキスから、長く情熱的な口づけに。 「ん……」 悠理が漏らした小さな声が、清四郎の衝動に更に拍車を掛ける。 片手で悠理の頭を後ろから支え、もう片方の手で悠理の頬を撫でる。 わずかに開いた唇から舌を差し入れ、逃げようとする悠理の舌を捕らえて絡めた。 初めての、深い口づけ。 衝動は止まらず、悠理の首筋に唇を這わせ、鎖骨へと舌を辿らせた。
身体の奥底から突き上げてくるような焦燥感に全てを委ねようとした時、清四郎は不意に微かな振動を感じた。 ゆっくりと目を開いて悠理を見下ろす。 清四郎の腕の中で、目をとじた悠理の身体が震えていた。 震えながらも悠理は清四郎に向かって手を伸ばし、その肩に縋りつこうとしていた。 「…清四郎?」 見開いた悠理の瞳に、今にも零れ落ちそうに涙がたまっている。 それに気付いた瞬間、清四郎は憑き物が落ちたように冷静さを取り戻した。
「悠理…すまない……」 慌てて悠理を抱き起こし、零れた涙を親指で拭ってやる。 「何で、謝るんだよ?あたい…大丈夫だぞ」 悠理が清四郎の顔を見上げ、必死な表情で答える。 ぽろり、ぽろり…その瞳から涙が零れ落ちる。
不意に、清四郎は泣きたいくらいに自分を情けなく感じて唇を噛んだ。 それと同時に、悠理が愛おしくて愛おしくて堪らなくなる。 「いいんだ。悠理…無理するな。まだ……いいんだ」 まだ震えている細い肩を抱き寄せ、唇で涙を吸い取った。 しょっぱいはずの涙が、ひどく甘く感じた。
「ちょっと酔ってるのかもしれません。いや、それを言い訳にする気はないが…最低だな。僕とした事が…」 「せーしろー…」 消え入りそうな小さな声で、腕の中の悠理が答えた。 「でも…あたい、ほんとに大丈夫だぞ。清四郎が好きだから…清四郎がしたいなら、いいよ…」 「ああ、もうそんなかわいい事を言うな、悠理」 少し身を離し、悠理の鼻をつまむ。
「んぷっ」 「僕も悠理が好きだから、こんな酔った身体でお前を抱きたくありません。お前を抱く時は…体調を万全に整えておきます!」 「ぶっ!お前…馬鹿?」 「馬鹿に馬鹿と言われたくありませんね」 「なっ、離せ!このやろー」
言いながら、清四郎は笑い出していた。
悠理も笑いながら食って掛かってきた。 悠理の拳を易々と受け止め、清四郎はもう一度軽く悠理に口づけ、また抱きしめた。
「今日はもう…帰ったほうがいいですね。遅くなってしまった」 「うん……」 清四郎の胸に顔をよせて、悠理が気が進まないような声を出す。 「こら。明日また会えるでしょう?」 「うん」 「じゃあ、いつにしましょうかねぇ?」 「何が?」 「悠理を抱く日です」 「ばっ、馬鹿!」 真っ赤な顔を上げて、悠理が口を尖らせる。 その唇に、また軽くキスを落とす。 「…楽しみにしてますね」 「……うん…」
ふと見ると、窓の外に真ん丸な月が見える。 清四郎の心も、今はその月のように満ち足りていた。 先程感じた、あの焦燥感が嘘のように、心が凪いでいた。
その日、迎えの車に乗り込んでいつもと変わりない様子で帰っていった息子の恋人と、様子を伺っていた父親に気付いて、 「何やってんですか?」 と冷たく聞き返す息子の表情に、ほっと胸をなでおろした父、修平であった。
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