―――そっと、清四郎の唇が押し付けられた。
悠理の心臓が、ひとつ大きな音を立てて跳ね上がる。
悠理の身長に合わせて、大きな身体を屈めた清四郎と目が合う。
何処か悪戯っぽい光を秘めた、それでいて優しいその黒い瞳。

悠理は真っ赤になって、清四郎に握り締められた手をひっこめた。
口づけられた指先が熱い。
「え…と……」
言葉を探す。

まいったな、なんにも出てこないぞ。

「また、明日」
清四郎が優しい声で語りかけ、悠理はただ黙って頷いた―――





           『大切をきずくもの』




「何よ、指先にキスされただけ〜〜?!」
可憐が素っ頓狂な声を上げた。
「か、可憐、声が大きいですわよ!」
真っ赤になった野梨子が唇に人差し指を当て、慌ててたしなめる。

チーズケーキがおいしいと評判の、カフェの一角。
オープンテラスのテーブルのひとつに陣取って騒いでいるのは、毎度おなじみ有閑倶楽部の三人娘。
ケーキの噂どおりのおいしさにもかかわらず、悠理嬢はすこぶる機嫌が悪かった。
無理もない。
「今日一日、あんたの挙動が不審だったワケ」を可憐に問いただされ、やっとの思いで話した理由を馬鹿にされたのだから。
「悪かったな!それだけの理由で」
可憐に「い〜だっ」と顔をしかめて見せてから、悠理は5個目のケーキを頬張った。

「だって、あんたたちが付き合いだしてからもう1ヶ月以上経つじゃない。あんたはともかく、あの男がまだ何にもしないなんて信じられなくって。ねえ、野梨子?」
「わ、私に振らないで下さいな。そんなこと、知りませんわよ!」
きゃあきゃあと騒ぐ友人たちを余所に、悠理は物思いにふけっていた。

―――可憐は「何にも」と言うけれど…
あたいには、あの指先へのキスひとつが、すごいドキドキもんだったんだけどな。


3度目のデートの帰り、送ってもらった自宅前で。
「じゃあ、悠理」
清四郎はそう言うと、繋いでいた手を持ち上げて、そっと悠理の指先にキスをした。
真っ赤になって口ごもる悠理を余所に、
「また、明日」
と、さらっと言って、清四郎は帰っていった。

付き合いだして1ヶ月以上が過ぎようとしているから、悠理もそれなりに、進展していく自分達の関係への覚悟は出来ている。
けれど、あの男はそんな悠理の「意気込み」を、実に鮮やかに裏切ってくれる。
昨日の「指先キス」がまさにそれ。
抱きしめられて口づけされた方が、まだこんなに狼狽はしなかったんじゃないかと思うくらいだ。
だから…悠理は今日一日、清四郎の顔をまともに見る事が出来なかったのだ。

 「でも…いいわねぇ。」
可憐のため息交じりの呟きに、悠理は我に返った。
「手も出せないほど大切に思われてるってことよね。あ〜、私もそんな恋がしてみたい!」
可憐の言葉に、野梨子が優しく微笑みながら頷いていた。

 

なんだか、考えると不思議な気がしてくる。
付き合う前はイジワルで、悠理のことなんかせいぜいペット扱いしかしてくれなかった男。
それが恋人になった途端に、何でこんなに大事にしてくれるんだろう?
なんでこんな…タカラモノみたいに扱ってくれるんだろう?
清四郎が自分の事を「恋人」と呼んでくれるだけで、悠理は眩暈がしそうなほど幸せなのに。


あたいはあいつに、何を返せるだろう。

こんなに、大切に思ってもらえることに対して―――。




                *****




「で、どこまで行ったのさ?悠理とは」
にっこりと笑いながら、『世界の恋人』はさらっと問いかけた。
無理やり連れてこられた、魅録の部屋で。

「は?何処って、水族館ですよ。悠理がセイウチが見たいと言うもので……」
「違う!そんなこと聞いてんじゃないよ。はぐらかすなよ」
ばしっ、と後頭部をはたかれそうになったが、当然のように清四郎はそれをかわす。

ふう、と嘆息すると口の端をちょっと下げ、清四郎は話しだす。
「別に何もしてやしませんよ。指先にキスしただけです」
「指先だけ?悠理の奴、それだけであんなに挙動不審になるわけ?……清四郎も大変だねぇ」
美童が呆れたように声を上げ、次いで同情したように呟く。
「…あのなぁ、美童。人のことは放っておいてやれよ」
机に肘を置き、頬杖をついて二人を見ている魅録は、顔をほんのりと赤らめている。
「まあね、予想はしてましたから。過程を楽しんでいますよ」
清四郎は、完璧な笑顔を見せながら言い切った。

 

―――まったく、魅録の言うとおり、放っておいて欲しいんですがねぇ。
清四郎はやや苦い思いでそう考える。

本当は、キスまで進むつもりだった。
繋いだ手を引き寄せて、抱きしめて。
それなのに、いざとなると体が動かないとは。
いやはや、自分も随分と臆病になったものだ。
「大切過ぎて手が出せない」そんな感情を、この身を持って体験するとは。

 

 「でも、なんかいいよねぇ…」
美童が溜息混じりに呟く。
「指先にキスって、唇にするよりエロティックだよね。僕も今度使ってみよう」
美童の言葉に、魅録が黙って拳固を落とした。




                   *****




友人達とのそんなやり取りを経た後の二人。
いつものように楽しいデートの帰り道。
「じゃあ。悠理、また…」
清四郎がそう言って、繋いだ手を離そうとした時―――

くっと、悠理が背伸びをした。
唇に触れた、柔らかな感触。
清四郎がそれが何であるかを悟るのに、2秒を要した。

―――参りましたね。手繋ぎに続いて、キスも悠理からですか?

「じゃ、な」
「あ…悠理!」

駆け出そうとした悠理の腕を掴んで引き戻す。
そのまま胸に抱き止め、唇を重ねた。
ゆっくりと二度、唇を動かす。
名残惜しげにそっと離した唇を、悠理の額に押し付ける。
ぎゅ、と抱きしめた。

 

愛しくて堪らない。
身体を固くして抱きしめられるままになっている悠理に、清四郎は微笑んで更に腕に力を込めた。

「せーしろ…」
「はい?」
「…苦しいぞ」
真っ赤な顔で抗議する悠理に、清四郎は声を上げて笑った。

「何笑ってんだよ!離せよ」
「嫌です。離しません」
「だ〜〜〜っ!」
「こら、暴れるな。またキスしますよ」

 

悠理はぴたりと動きを止めた。
そしてそっと、本当にそっと清四郎の背に自分の腕を回した。
心臓がうるさいぐらいに早鐘を打っている。
何とか清四郎を喜ばせたくて、一念発起した悠理からのキス。
それは、考えていた以上に清四郎を感動させたようだ。
…返り討ちに会うとは予想していなかったけれど。



抱き合ったまま、二人はそれぞれに思いを巡らす。
お互いを今、何よりも大切に思う。

 

―――こんなにも、人を愛しいと思えるとは知らなかった。
―――こんなにも、離れたくないって思えるなんて、知らなかった。

 

ひとつひとつ、二人で築いていく大切な感情、経験、そして未来。


そして二人は、またひとつ、大切なものを築いていった。





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