pm9:30

 

 

週末の夜の街は、楽しげに行き交う人々で溢れかえっている。

歩道脇に並ぶ店々の看板やネオンも、常よりも煌きと力を増しているかのようだ。

賑やかにおしゃべりをしながら歩いていくOLらしき一団、腕を組んだり、手を繋いだり、仲睦まじさを見せ付けるようにしている恋人達、既に一杯気分でクダを巻いている中年サラリーマン。

 

 

そんな街行く人々を、ガードレールに腰を下ろして楽しげに見つめている少女がいる。

ロックバンドのロゴの入ったTシャツにジーンズ、ごついブーツという、一見すると少年かと見まがうようないでたち。

長いまつげに覆われた大きな瞳は、街の灯りを映してきらきらと輝き、うっすらと赤い唇は仄かに開いて笑んでいる。

後ろを通り過ぎる車のヘッドライトに照らされて、淡い色の髪が金色に透けるのに、見惚れながら通り過ぎていく人々。

 

 

突然、少女は長い足を振り上げ、勢いをつけるとぽんと歩道に降り立った。

ポケットに手を突っ込んで、CDショップから流れてくる音楽にあわせるように、リズムをつけて歩き出す。

ほんの数歩歩いたところで、ふいに彼女は立ち止まり、ゆっくりと後ろを振り返った。

 

 

―――誰かに、名前を呼ばれたような気がして。

 

 

 

けれどそこには、ただ街の喧騒があるだけ。彼女の名を呼んだ人の姿は、ない。

少女は少し微笑むと前に向き直り、軽く首を振ってまた歩き出した。

街に流れる、流行の歌を小さな声で口ずさみながら……

 

 

 

 

 

「ただ…逢いたくて」

 

 

 

 

 

自室の机の上に鞄を放り投げるように置くと、清四郎は小さな溜息をついた。

朝から父親の用事に付き合わされ、ようやく解放されたところだ。

軽い頭痛を感じ、疲れた身体を椅子の背にもたせ掛けて座ると、眉間を揉んだ。

目を閉じると、今日一日に会った人々の顔が、チカチカと浮かんでは消える。どの顔も、皆一様に作り笑いを浮かべていた。

親父も仕事とはいえ、あんな人間達と付き合っていくのはさぞかし退屈なことだろう、と思った。

 

 

目を開き、机の上に視線を移す。そこには、本物の笑みをたたえた友人達の姿が、一枚の写真の中に仲良く並んでいる。

清四郎は微笑を浮かべ、中央でひときわ楽しそうに笑っている友人の顔に、指先で触れた。

ゆうり、と彼女の名を呟く。途端に何ともいえない寂しさが彼を襲った。

 

 

今日は土曜日。明日もまた、彼女に会えない。

 

 

胸の奥深くで疼く思いに、清四郎はまだ名前を与えてはいない。

ただ、そばにいたいだけ。ただ、彼女の笑顔を見ていたいだけ―――ただそれだけで、満たされる。

現実にそばにいる時には、つい憎まれ口をきいたり、彼女をからかったりしてしまうのだけど。

 

 

悠理は今頃、何をしているんだろう?今日は、倶楽部の皆も用事があると言っていた。

一人で家にいる?いや、あいつが週末の夜に、家でじっとしているわけがない。

きっと、どこかで遊んでいるのだろう。誰と―――?

 

 

携帯を手に取り、悠理に電話をかけようとして、止めた。

もう夜も遅い。こんな時間に、「どこにいる?会いたい」などと言えば、二人の関係を変える事になる。

今はまだ、それは避けたい。けれど疲れた心は、悠理の笑顔を欲している。

 

 

一度脱ぎ捨てたジャケットを手に取ると、清四郎は部屋を出た。夜の街へと。

ただ、逢いたくて。どうしようもなく、逢いたくて。

 

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 

スロージャズが流れるバーのカウンターに腰掛けて、悠理は二杯目のソルティ・ドッグを注文した。

つまみに出されたジャイアントコーンを噛み砕き、バーテンがカクテルを作る手際の良い動きを眺める。

落ち着いた、ウッディなムードの店内。磨きこまれた一枚板のカウンター。

いつも悠理が選ぶのとは少し趣の違うこの店に、ふらりと入ったのは正解だった。

店の人間は客と付かず離れずの距離を保ち、一人客の悠理にうるさく声をかけてくる男もいない。

 

 

―――こういう店も、いいもんだな。

前に置かれたグラスを手に取り、グラスの縁に付けられた塩を、ちろ、と舌を出して舐め取る。

いつもなら、賑やかなロックミュージックがガンガンと響く店を選ぶのだが、今日は何故か、そういう店は敬遠したい気分だった。

落ち着いた、雰囲気のいい店でゆっくりと酒を飲みたい。彼女にしては、珍しいこと。

―――なんか、あいつが好きそうだよな、この店。

年の割りに老成した雰囲気を持つ友人の顔が浮かび、悠理は微笑んだ。

 

 

―――そう、あいつが持ってる、包み込んでくれるようなカンジに似てる、この店。

気分の良さの理由がわかった。

いつもいつも悠理の事を、ペットか何かのように扱うばかりのイジワルな男だけれど、瞳の奥に隠された彼の優しさを悠理は知っている。

仲間が苦難に合えば、身を挺しても助けてくれる男。彼の側にいれば、何も怖いものなどないと思わせてくれる男。

 

 

何度か悠理を慰めてくれた、彼の広い胸と大きな手の感触を思い出し、悠理は不意に落ち着かないような気分になった。

何か、大切な物をどこかに置き忘れてきたような気がして、ゆっくりと店の中を見渡す。見知った顔など、どこにもない。

ぎゅ、と胸を鷲掴みにされたかのように、一人でいることが寂しい、と思った。

 

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 

3軒目の店のドアを出ると、清四郎はふぅ、と大きく息を吐き出した。

特にアテもなく、ただ悠理が立ち寄りそうな店を覗き続けていた。

彼女の好みは知っているつもり。寂しがり屋の悠理はいつも、賑やかで華やかな店を選ぶ。

今までに彼女と遊びに来たことがあるのは、全てそういう店だった。

けれど、彼が見当を付けたどの店にも、彼女の姿はない。

 

 

腕に嵌めた時計を見ると、もうすぐ日付の変わる時刻。

―――タイムリミットだな。

落胆した気持ちが、体の疲れをより強く意識させる。

会いたくても、偶然にも出会えないことが、自分と彼女の心の距離を表しているかのようだ。

賑やかな街の喧騒の中で、彼は孤独に浸った。

 

 

「ゆうり」と、小さく口に出して言ってみる。胸の奥が、痛いほどに疼く。

ポケットから携帯を取り出し、着信通知のないディスプレイをじっと見つめ、またポケットに戻す。

まばゆいネオンの為に星一つ見えない空を見上げ、思いを巡らす。

 

 

―――もう一軒だけ。それで諦めよう。

自分に言い聞かせると、重い足を踏み出す。

何軒かの店を頭の中に思い浮かべ、いつか会員制のパーティで行った店に行き先を決めた。

小さな店だが悠理の好きなロックが流れ、申し訳程度のフロアで男女が踊っていた。

あの時、自分は壁際の席に腰掛け、フロアで踊る悠理と魅録を眺めていたのだった。

切ない記憶。他の誰よりも、自分が悠理の近くにいたいと思い始めたのは、あの頃だったかもしれない。

セピア色の記憶の中で、妙な焦りを感じていた自分を思い出し、清四郎の歩みが止まる。

 

 

きっとあの店に行っても、悠理はいない。今日はもう、逢えない。

 

 

そう思うと、今までの自分の行動がひどく馬鹿らしく思えて、乾いた笑い声をたてた。

―――何をやっているんだ、僕は。一杯飲んで、今日はもう帰ろう。

自分の稚気を悟り、妙に吹っ切れた気分になった。

どこで飲もうかと考えながら歩き出したとき、見覚えのある店構えが目に入った。

確か以前に何度か男3人で来たことのある店。落ち着いたいい店だった。

 

 

地下へと続く階段の先に、オーク材のドアが見える。

そのドアが開いたかと思うと、誰かが出てきた。すんなりとした体躯の、少年のような少女。

俯いていた顔が、階上から伸びる人影に気付いたかゆっくりと持ち上げられる様子を、清四郎はまるでスローモーションのように見ていた。

 

 

―――信じられない。

諦めた途端に、この偶然だ。

階上に立ったまま、じっと彼女の顔を見つめた。向こうもじっと、見つめ返してくる。

長いまつげに覆われた、大きな瞳。逢いたくて逢いたくて、たまらなかった人。

 

 

「悠理……」

呼びかけると、彼女はぱぁっと花開くような笑顔を見せた。とととっと階段を駆け上がり、彼の前に立つ。

「清四郎、偶然だな。何してんだよこんなとこで。一人?」

「ええ。一杯飲もうかと思って来たんですが…悠理は?」

「しこたま飲んで、もう帰ろうと思ってたとこ」

「そうですか……」

 

 

柄にもなく、笑みが溢れて止まらない。

ただ、逢いたいと思っていただけだったのに、本当に逢えたらもう、彼女を離したくない。

 

 

「一杯だけ、付き合ってくれませんか?」

そっと、彼女の肩に手を置いた。

「おごってくれんの?」

「もちろん」

そう答えると、悠理は笑いながら頷いた。

「いいよ。ここ、いい店だよな。お前よく来るの?」

「何度か、魅録と美童とね。悠理は?」

「あたいは、今日はじめて」

 

 

「はじめて」という言葉が、嬉しくてたまらない。

肩に置いた手に少し力を入れて、二人並んで階段を下りていく。

悠理がその手にふと目をやり、ついで清四郎の横顔に視線を移した。

 

 

「なぁ……」

「ん?」

「お前、あたいのこと呼んでた?」

「え?」

 

 

怪訝な表情の清四郎に、悠理は先ほど一人でいるときに感じた、何とも言い難い感情を思い出す。

肩に置かれた大きな手。今は、その手の主が横にいる。

もう、寂しくはない。

 

 

「なんでもない!」

 

 

すんなりとした腕が、清四郎の腕に絡んだ。半身に感じる、柔らかな感触。

驚いて見下ろすと、嬉しげな悠理の顔。つられて清四郎も、ふ、と微笑み、バーのドアを押し開いた。

ゆったりと流れるスローなジャズ。店の人間の笑顔が向けられる。

 

 

 

寄り添った二人の後ろで、ドアがゆっくりと閉まった。

 

 

 

 

 

end

 

( 2006.5.2up)

 

 

 

 

 novel

 

 Material By 創天 さま