「気鬱な夏の日」

   By にゃんこビールさま(イラスト By えりんさま)  

 

 

 

ジリジリと照りつける真夏の太陽

耳障りなほどの蝉の鳴き声

暑さもそっちのけで走り回っている子供たちの声

 

「ふぅ…」

 

清四郎は読んでいた本を閉じて寝ころんだ。

日中、幾分涼しい一階の和室で読書をしていたのだが

気が散ってまったく頭に入らない。

両親はニューヨークの学会に揃って出席、姉・和子も友だちと旅行。

清四郎は留守番である。

 

本来なら愛しい恋人・悠理とデートするところだが、夏休みが始まったとたん

百合子にヨーロッパへ連れて行かれてしまった。(強制連行)

フランスで食べ過ぎてないだろうか、

イタリアでヘンな男に声かけられてないだろうか、

イギリスで迷子になってないだろうか、

心配で気が気でない清四郎は出掛ける気力も起きない。

悠理がいないのだからなおさらだ。

しかも仲間たちまでみんな出掛けて不在だ。

野梨子はお茶会の手伝いで京都へ、

美童は彼女と軽井沢にデート、

魅録と可憐はふたりで北海道を車で旅行中ときてる。

ただひとり、清四郎だけがヒートアイランド・東京に置いてきぼりだ。

 

「悠理は今頃なにしてるんでしょうねぇ…」

清四郎はぼんやりと飾り格子の天井を見つめて呟いた。

「…にゃう」

――― え、猫?

清四郎が庭の方に顔を向けると、一匹の猫が縁側から顔を覗かせていた。

近所の猫が庭を通り道にして闊歩するのは見たことがあるが、

家の中を覗いた猫は初めてだ。

清四郎は起きあがり、そっと近寄ってみた。

猫は逃げることなく、じっと清四郎の顔を見つめている。

「新顔ですね。お前、どこの子です?」

清四郎の言葉に猫はちょこっと首を傾げた。

その仕草が可愛くて清四郎は縁側に座り直し、ポンポンと隣を叩いた。

「おいで」

試しに呼んでみた。

「にゃ」

すると猫は軽やかに飛び上がって清四郎の隣に座った。

大きな耳、アーモンド型の大きな瞳、小さい顔、短い毛は黄金に光っている。

痩せて筋肉質な細い体型と細い足、長いしっぽ。

よく見るとアビシニアンのようだが、首輪をしていない。

とはいえ、アビシニアンの野良猫なんていないだろう。

清四郎はひょいっと猫を抱き上げた。

猫はクリクリっと大きな瞳を動かして嫌がる素振りもしない。

 

――― 何だか悠理に似てるな

 

ふっと清四郎は微笑んだ。

縁側に座らせて頭を撫でてやると、猫は気持ちよさそうに目を細めて

のどをゴロゴロと鳴らした。

ずいぶんと人なつこい猫だ。

清四郎は床の間に飾ってあった花瓶から桔梗の花を抜き、猫をじゃらしてみた。

高く揺らすと後ろ足で立って前足を伸ばし、床で左右に振ると前足で捕まえようと

必死に追いかけている。

勢いあまって清四郎の腕に飛びついてきたが、決して爪は出さない。

その無邪気なしぐさに清四郎は笑いがこみ上げてくる。

まだ仔猫のようで何にでも興味を示すところがおもしろい。

悠理のところのタマとフクも可愛いが、すでに成猫なのでここまで夢中にはならない。

しばらくすると猫はぐわ〜っとあくびをした。

どうやら遊び疲れて眠たくなったらしい。

「しょうがないですねぇ」

コリコリと指で猫の眉間を撫でると、気持ちよさそうにコロンと横に寝転がった。

 

 

居心地が余程いいのか、ハグハグと前足を甘噛みしたり、

柔らかいお腹の毛をペロペロと舐め始めた。

清四郎も猫と遊ぶのはやめて、読みかけの本を読み始めることにした。

 

 

昼間、進まなかった本を読み終えた頃、西の空がオレンジ色に染まっていた。

清四郎が横を見ると、あの猫がお腹をゆっくりと上下させて寝ている。

実に無防備で、とても幸せそうな寝顔。

「自分の家に帰らなくっていいんですか…?」

起こすのも忍びないほど実に気持ちよさそうに寝ている。

悠理も悔しくなるほど、気持ちよさそうに寝ていることがある。

そっと猫の体を撫でてやるとコロンと転がってまた寝ている。

寝ている悠理の髪を撫でると寝返りするところまでそっくりだ。

『もう食べられないよぅ〜… ムニュムニュ…』

そんな寝言を言ったら完璧なのに、と清四郎はくすくすと笑った。

 

「ぼっちゃま、こちらですか?お夕飯ですけど…」

襖の向こうからお手伝いさんの声がした。

すっと襖が開いたと同時に猫もパチッと瞳を開けた。

そのまま驚いて逃げるかと思ったが、ピンクの鼻をピクピクさせている。

「まぁ!猫ちゃんが遊びにきてたんですか?」

かわいいですね、というお手伝いさんの足元に猫はトコトコと歩いていき、

スリスリと体をすり寄せて「にゃ〜ん」と甘い声で鳴いた。

なんて調子のいいヤツだ、と清四郎は呆れて様子を見た。

お手伝いさんが猫好きじゃなかったら叩き出されるところだ。

お世辞にゴロゴロと喉を鳴らしてすっかり甘えている。

「それじゃ、今夜は煮魚にしましょうか」

お手伝いさんも清四郎にではなく、明らかに猫に献立を聞いている。

「にゃーにゃーにゃーにゃーにゃー!!!」

猫は長いしっぽをピンと立てて賛成を表明。

「ええ、ぜひそうして下さい」

清四郎は笑いながら興奮している猫を抱き上げた。

 

猫は細い体のどこに入るのか不思議になるほどガツガツ食べた。

お茶碗が空になると「にゃーにゃー」と鳴いておかわりを要求する。

「もうお終い」

と言われると首をめいっぱい伸ばしてテーブルの上を覗いた。

テーブルに上がり、清四郎のおかずまで手を出しそうだったが

そこは清四郎に叱られて泣く泣く諦めたようだ。

仕方なく清四郎の膝の上に座り、恨めしそうに食事中の清四郎の顔を見上げていた。

夕飯を食べた後も一向に帰る気配がない。

お手伝いさんが帰る時間になると、猫は清四郎といっしょに玄関で見送った。

「それでは、ぼっちゃま、おやすみなさい」

「ええ、おやすみなさい」

「にゃーん」

清四郎と猫に見送られたお手伝いさんはにこにこと微笑んでドアを閉めた。

「お前も“おやすみなさい”していいんですよ」

清四郎は行儀よくお座りしている猫に帰るように促す。

しかし猫は知らんぷり。

「帰らないと飼い主が心配しますよ」

もしもこれがタマとフクだったら、悠理はどんなに心配するだろう。

きっと寝ないでタマとフクが戻ってくるのを待つに違いない。

この猫の飼い主も同じ想いをするかと思うと清四郎はいたたまれない気持ちになる。

そんな清四郎の気持ちも知らないで猫はツンとしっぽを立てて

とっととリビングへと戻っていった。

とはいえ、こんなに悠理にそっくりなこの猫を帰したくないのも本音。

なんとも複雑な気持ちで清四郎は猫の後を追ってリビングに入った。

自分の家のように猫はすっかりくつろいで毛繕いしている。

一瞬、清四郎の顔色を伺い、また熱心に毛繕いを始めた。

「仕方がない…」

ひとつため息をついて清四郎は猫を泊めることにした。

すると猫は清四郎の足下に来てスリスリと体をすり寄せた。

頬が緩まるのをぐっと堪え、清四郎はしゃがんで猫の顔をじっと見た。

「でも僕の言うことを守れなかったらすぐに外に出します、いいですね?」

しつけのつもりでキッと怖い顔をする。

「にゃ〜ん」

清四郎に睨まれてもなんのその。

猫は嬉しそうに目を細めて甘えた声で返事をした。

 

 

それから猫は清四郎のあとをくっついて歩いてきた。

リビングでテレビを見ていれば前足を清四郎の膝に乗せていっしょに見る。

騒々しいコマーシャルになると身を乗り出し、動きに合わせてクルクルと目を動かす。

ただニュースなどになるとぶぁーっとあくびをしてつまらなそうにしている。

テレビなんかより猫の仕草を見ている方が楽しい。

二階に上がると、清四郎の部屋にもついてきた。

清四郎がパソコンを立ち上げるとぴょんと膝の上に乗り、不思議そうに画面を覗く。

しばらくキョロキョロとマウスポインタを瞳で追っていたのだが、それに飽きてくると

ストン、と膝から飛び降り、ベッドの上で大人しく丸まっていた。

清四郎がお風呂に入ろうと一階に下りたときももちろんついてきた。

ただ、清四郎が服を脱ぎ始めると猫は飛び上がって一目散に出て行った。

その様子がおかしくて清四郎は声を出して笑った。

お風呂から出るとリビングで寝ころんでいる猫を見つけた。

清四郎が「いっしょに入ろうと思ったのに」とからかうと

ふて寝していた猫はプイッと顔を背けた。

もしも猫の顔色がわかったら、まちがいなく真っ赤なのだろうと

清四郎はおかしくなった。

なにもかもが悠理にそっくりなのだ。

 

――― 悠理…

 

笑っていたのに、ふっと寂しい顔になった清四郎を猫は不思議そうに見上げていた。

「…なんでもない」

清四郎はにっこりと猫に笑いかけた。

「さ、そろそろ寝ますよ…」

清四郎はしゃがんで猫を抱き上げて自室に戻った。

 

清四郎は猫のために段ボールを用意し、使い古しのタオルで寝床を作った。

「ここが今夜のお前の寝床です」

猫はドアの前でお座りをしたまま動こうとしない。

「どうした?」

清四郎が聞いても猫は長いしっぽをパタンパタンと動かすだけ。

まるで拗ねてるみたいだ。

「お前のために作ったんですよ?」

微動だにしない猫を抱き上げて段ボールの中に入れた。

箱の中から見上げる猫の瞳は寂しそうな色が浮かんでいた。

「おやすみ。明日はちゃんと家に帰るんですよ」

可哀想な気もしたが、ここで情け心を出すわけにもいかない。

清四郎が部屋の電気を消すと同時に、猫が「くぅ〜ん」と小さい声で鳴いた。

暗闇と静寂が家の中に広がる。

「………」

猫は段ボールから出てくる気配もなく、じっと息を潜めているのが伝わる。

「………」

猫のことが気になる清四郎は、なかなか眠りにつけない。

 

――― ちゃんと寝ただろうか…

 

清四郎はそっとベッドサイドのスタンドを付けた。

猫は箱から顔だけを出して清四郎の方を見つめていた。

それは寂しそうで、つまらなそうで、ふて腐れた顔。

「こっちに… きますか?」

清四郎が声を掛けると猫は音を立てずに箱から飛び出してベッドの清四郎の胸元に

飛び乗った。

「ここなら寝られますか?」

清四郎が聞くと猫は黙って目を細めた。

前足をしまって丸まった猫の背中を優しく撫でた。

 

――― いくら悠理と会えないからって

 

――― 悠理によく似てるからといって

 

猫といっしょに寝るなんてずいぶんと虚しいことをしていると清四郎は苦笑した。

清四郎に撫でられ続けていくうちに猫はコテンと体を横になった。

それは安心に満ちていた幸せそうな顔。

清四郎もここに悠理がいるようで、とても穏やかな気持ちになった。

「悠理…」

いつしか猫はクークーと寝息を立てて眠ってしまった。

清四郎も規則正しい寝息を聞きながら静かに眠りに落ちていった。

 

 

 

小鳥のさえずりとカーテンの隙間から差し込む光に清四郎は目覚めた。

気が付くとベッドに猫の姿がない。

段ボールを覗いてもいなかった。

一階に下りてもどこにも猫はいなかった。

「どこに行ったんだ…」

清四郎は途方に暮れた。

あんなに懐いていたし、この際、家族を説得して飼おうかと考えていた。

なによりも悠理に似て可愛いあの猫を手放したくなかった。

それなのに朝になって忽然といなくなるなんて。

昨日は帰れと言っても帰らなかったくせに、

飼い主のところに帰って行ったのだろうか。

もしかして朝食の匂いがしたら戻ってくるかもしれない。

清四郎は着替えを済ませ、朝食の支度をした。

しかし猫の姿も、声も聞こえなかった。

「気まぐれなやつ…」

清四郎はため息をついてコーヒーに口をつけた。

 

 

するとガチャと玄関のドアが開いた。

「せいしろぉぉぉぉぉぉ! ただいまーーーーーーー!」

思いも寄らない声に清四郎は慌てて玄関に向かった。

そこには山吹色のワンピースを着た悠理が立っていた。

「ゆ、ゆ、ゆ、悠理?」

まさか、あの猫が悠理になって現れた?

清四郎はゴシゴシと目を擦って、目の前にいる猫、いや悠理をよく見た。

そんな清四郎を余所に、悠理はぴょんと元気よく跳ねて清四郎に抱きついた。

「清四郎ぉ〜 ただいま〜」

耳元で囁く声、首に回された細い腕、頬に当たる柔らかな髪の毛、ふわりと漂う甘い香り。

幻覚なんかじゃない。

間違いなく清四郎の腕の中にいるのは悠理だ。

「悠理… おかえり」

清四郎の言葉に悠理は首に回した腕を緩めた。

「あたいね、すごく清四郎に会いたくなっちゃって途中で帰ってきたんだ」

えへ、と舌を出して悠理はおどけて見せた。

清四郎は愛おしくて悠理を抱き寄せた。

「悠理… 僕も会いたかった」

清四郎はそのまま押し倒さんばかりに頭を掻きよせ、腰に腕を回した。

「ちょっ、ちょっと、清四郎!!」

悠理は顔を真っ赤にして暴れた。

「…ん!」

「…ん?」

動きをピタリと止めた悠理に清四郎も同じく止まった。

「なんかいい匂いがする!」

悠理はくんくんと猫のように鼻を動かした。

「ああ、ちょうど朝食を摂ろうとしていたところだったんですよ」

清四郎はチーズオムレツにベーコン、厚切りのトーストにコーヒーを作っていた。

あの猫が戻ってくるように、と。

「やった!空港から真っ直ぐきたからお腹ペコペコなんだ」

悠理はそういうと清四郎の腕をほどいてさっさとキッチンに向かった。

呆れた清四郎が後からキッチンに行くと、悠理は笑顔でテーブルについていた。

その様子があの猫に似ていて清四郎はプッと吹き出した。

「仕方ありませんねぇ」

清四郎は急いで悠理の分も朝食の用意をした。

 

清四郎の分も半分平らげた悠理は満足そうにコーヒーを飲んでいた。

「実はね…」

楽しそうに話す悠理に清四郎は顔を上げた。

「ギリシャのサントリーニ島に行ったらね、猫がいっぱいいたんだ」

「サントリーニは猫天国だって聞きますからね」

清四郎は悠理のカップにコーヒーを注ぐ。

「そこに黒でお腹が白い猫がいてね、すましてて、あんまり人に媚びなくて、ケンカも強いの」

清四郎は黙って悠理の話を聞いていた。

「あたいが他の猫と遊ぶとヤキモチ妬くんだよ。誰かに似てると思わない?」

くすくすと笑う悠理に、ちょっと眉をピクつかせる清四郎。

「なんかさ、その猫と遊んでたら清四郎に会いたくなっちゃったんだぁー…」

 

 

悠理はサントリーニ島の白い壁の前に姿勢よく座っていたその猫を思い出した。

プライドが高くて、ケンカが強くて、ヤキモチ妬きな清四郎に似た猫。

清四郎もあの猫のことを思い出した。

人なつこくて、甘えん坊で、大食いで、寂しがりやな悠理に似た猫。

「実は僕も…」

 

 

 

「あら?」

京都から帰ってきた野梨子はタクシーから下りて隣家の門をふと見た。

アビシニアンと黒白の和猫がじゃれながら出てきた。

仲睦まじい猫たちに野梨子も自然と微笑む。

「どこかで見かけたような気がしますわね…」

野梨子は口元に指を当てて考えた。

アビシニアンと黒白の和猫は、付いたり、離れたりしながら

そのまま姿が見えなくなった。

はっ、と野梨子は隣家を見上げた。

そしてくすくすと温かい微笑みを浮かべて自宅へと入っていった。

 

 

 

 

end

 (2006.8.9up)

 

 

猫話のお部屋

Material By hanzo's famry CATTOWN さま