「まっ白」
3月13日。 期末試験も終わリ、半日授業になったこの日、有閑倶楽部のメンバーは、部室でのんびりと放課後を過ごしていた。 いつものように、魅録はバイク雑誌をめくり、美童は携帯で今日のデート相手にメールを打っている。野梨子と可憐は仲良くファッション雑誌を覗き込み、悠理はファンからの差し入れのお菓子を口に放り込んでいた。
「悠理、明日の午後は、何か予定がありますか?」 不意に、悠理の向かいで新聞を広げていた清四郎が尋ねた。 「へ?…別に、ないけど?」 お菓子を口に運ぶ手を止めて、悠理がいぶかしげに答える。
「よかった。じゃあ、僕に付き合ってもらえますか?」 「何?もしかして…勉強?」 「……違いますよ。この間のね、お礼をしたいと思って…」 不安げな顔で見上げてくる悠理に、清四郎は苦笑しながら答える。その黒い瞳に、優しい色を浮かべながら。
「お礼……」 悠理は一瞬考え込むような表情になリ、次の瞬間、ボンッ!と音がしそうな勢いで顔を赤くした。 「予定、空けといてくださいね」 悠理の様子に、清四郎はくすくすと笑いながら、新聞に目を戻した。口元を、ずっと綻ばせたままに。
顔を赤くしたままで、悠理は他の友人たちの顔を順番にうかがう。 魅録は、ん?というように、眉を上げて見せ、美童は、何やらニヤニヤとしている。野梨子は、何のことやらわからないという様子で、小首を傾げてこちらを見ていた。そして可憐は―――微笑んでいた。まるで聖母のように。
「え…と」 悠理は、意味もなく声を出しながら、上の空でお菓子を口に運び続ける。 明日―――明日はホワイト・ディ。
「あんたにだって、チョコを渡したい相手の一人くらい、いるでしょ?」 そう言って可憐がくれたチョコを、清四郎に渡したのは、一ヶ月前のこと。 それまで、自分が清四郎のことを好きだなんて、意識したこともなかった。 チョコを渡したからといって、それでどうこうという考えも、その時の悠理には無かった。
ただ、清四郎にあげたいと思ったから、あげただけのこと。 清四郎は、「ありがとう」と言ってくれた。ただ、それだけで嬉しかった。そう、その時は。 けれど、その後まったく何の変化も無い清四郎の態度に、多少の不安と不満を、最近は抱くようになっていた。
あのチョコを、清四郎はどんな意味に受け取ったんだろう? どうして何にも言ってくれないんだろう?単なる義理チョコだと思ったのかな? それともわかってて、わざと知らん振りしてるとか? 一体、清四郎はあたいのことを、どう思ってるんだろう? あの日以来、何度も何度も心の中で繰り返していた問いに、清四郎が答えをくれようとしている。
3月とはいえ、窓の外はまだまだ寒い。太陽が力のない日差しを降らせている中、はらり、はらり、と風花が舞っている。 そんな中で、悠理の口元がふっ、と綻ぶのを、仲間たちは温かい思いで見つめていた。
*****
「時間通りですね」 約束の日、時間ぴったりに待ち合わせ場所に現れた悠理に、ダークグレーのコート姿の清四郎は微笑んだ。 「どこに、連れてってくれんの?」 悠理はオフホワイトのタートルニットに、白いラビットファーのベスト、ベージュのスェードショートパンツ姿だ。 薄いタイツ一枚きりの足には、茶色のサイドゴアブーツ。
「あそこです」 「あそこ…?」 清四郎が指差す先を、悠理は呆然と眺めた。そこには、最近オープンしたばかりのアミューズメントビル。 一階は巨大なゲームセンターになっており、上階にはボーリング場やビリヤード、スリックカートにバッティングセンター、カラオケもある。 「この間のお礼」というか、どういうことかと緊張していた悠理の肩から、すうっ、と力が抜けていく。 そんな悠理の心を知ってか知らずか、清四郎はニッと不敵に笑った。
「勝負しましょう。さぁ、何からやります?」 「スリックカート!」 そう叫ぶと、満面の笑みを浮かべて悠理は走り出した。
ツルツルしたビニール樹脂の路面を小型のカートで走るスリックカートでは、俊敏さと動物的な反射神経を誇る悠理が、僅差で勝利を収めた。 次のボーリングは、いい勝負ではあったが清四郎の勝ち。そしてビリヤードは、清四郎が圧勝。
「清四郎、次はバッティングセンターに行くぞ!」 それまでの結果に悔しそうな顔をしながらも、悠理はリベンジだとばかりに、声を張り上げ、清四郎の腕を引っ張った。 「はいはい」 呆れたような声を出しながらも、清四郎は嬉しそうについていく。
カキーンといい音を立てて、悠理は次々にボールをかっ飛ばしている。 清四郎は、缶コーヒーを片手に、ゆっくりと後ろのベンチに腰を下ろした。 コーヒーを一口飲み、小さく溜息をつく。そして、振り向いて楽しそうに笑う悠理に、微笑を返した。
ここを選んだのは、正解だったな、と思う。 本当は、もっとロマンティックな場所も考えた。けれど、まだ心を打ち明けあったわけでもない自分達には、そういうところは妙に照れくさい感じがして。 悠理が、いつもの笑顔を見せてはくれないような気がして。
―――まだもう少し、このままでいいのじゃないか。 そんな気が、した。 本当は、この後食事をして、その時にでも、自分の気持ちを打ち明けるつもりであったのだけれど。 悠理が好きだと。これからも、ずっと、付き合っていこうと。 けれど、友人同士の関係のままで、こうして過ごすことがこんなにも楽しいのであれば、無理に「恋人」という関係にならなくてもいいのじゃないかと、清四郎は自問した。 今はまだ、二人の間に、答えはいらないのではないかと。
ふと、可憐の柳眉を逆立てている顔が浮かんだ。「なにやってるのよ!」と。 「そんなに急かさないでくださいよ」と、心の中で苦笑しつつ詫びる。 こんな感情には慣れていないから、自分でもどうしたいのか、今ひとつよくわからないんです、と。
「清四郎、お前もやれよ!」
悠理の叫び声に、清四郎は腰を上げる。 受け取ったバットで、飛んでくるボールを次々に打ち返すと、後ろで悠理が歓声をあげる。額に、汗が浮かぶ。 もう少し、このままでいたい。この心地よい関係を壊したくはないと、らしくなく臆病な心が頭をもたげる。
一度走り出した恋情は、止める事など出来はしないことを、清四郎はまだ、知らない。
*****
夕食は、気の張らないイタリアンのレストランで取った。 陽気なイタリア人のウェイター達が、悠理の食べっぷりに目を丸くして話しかけてくるのを清四郎が通訳し、しまいには太った気のいいコックまで仲間入りをして、大騒ぎのうちに食事は終了した。
「ありがとう、清四郎。すっごく楽しかった」 帰り道、悠理は隣を歩く背の高い男を見上げ、白い息を吐きながら言った。 「僕も、楽しかったですよ」 清四郎も、悠理より少し大きい白い息を吐き出しながら言った。
悠理は、満足していた。 清四郎は、悠理が思っていたような答えをくれはしなかったけれど、今日一日、清四郎が悠理を楽しませようと心を砕いてくれていたのがよくわかったし、それが―――そのことが、とても嬉しかったから。 きちんと清四郎の顔を見てお礼を言いたくなって、悠理は、たたっと清四郎の前に走り出ると、振り返って叫んだ。
「すっごくすっごく楽しかった!」
太陽のような、笑顔。 清四郎は、周りの空気が一瞬温度を上げたかのように感じた。 そして、自分の胸の内の温度も、高まっていくのを感じる。悠理の笑顔に。悠理の言葉に。 切なくて苦しいほどに、思いが高まる。押さえつけようとしても、思いは溢れる。もう告げずには、いられなくなるほどに―――
「悠理っ……」
コートのポケットを探り、取り出したものを悠理に向かって投げた。悠理が、両手でキャッチする。 悠理の両手に収まったのは、小さなかわいいイラストが描かれたキャンディの缶。 シールになったリボンに、小さなカードがぶら下がって付いている。 開くとそこには、「好きだ」という文字。
ものも言えずに、悠理はじっとその文字を見つめ続けた。 視界が、まっ白にぼやけていく。シンプルな言葉が、どんな雄弁な文章よりも悠理の心に響いた。 今日、一番聞きたかったのは、この言葉だった。自分がどんなにこの言葉を求めていたかを、悠理は今、知った。
「…両思いだな」 顔を上げて、悠理がふわりと笑った。
「ええ。両思い、です」 清四郎も、にっこりと笑う。
戸惑い迷っていた心の霧が、嘘のように晴れていく。 そして、まっ白に澄んだ心の中に、お互いへの思いだけが広がっていく。
「…帰りましょうか?」 「うん!」
さりげなく、清四郎は悠理の手を取ると、先に立って歩き出した。 悠理は、先を歩く清四郎の背中をまっすぐに見つめながら、ついて行く。
3月14日、ホワイト・ディ。 愛を送られた男性が、彼女の愛に応える日。
幸せな思いを噛み締めながら、無言で歩く二人の肩に、ふわりと、名残の雪が降りてくる。 今までは、ただの友人。そして、ついさっきからは、恋人。 繋いだ手の暖かさに、多少の面映さを感じながら、二人はゆっくりと歩く。
この日、一生にただ一度の恋が、二人の前に幕を開けた。
end
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