Bisbiglio Dolce
退屈なパーティ。
悠理は、片手に持ったグラスの中のカクテルを、ちびりちびりと舐めながら、着飾った男女の群れを眺めていた。 誰もが罪のない表情を浮かべ、うわべだけの会話を取り交わしている。 剣菱財閥のご令嬢である悠理に近づこうと、話しかけてくる輩も数多いが、悠理は彼ら全てをあいまいな様子でかわし続けていた。
まったく、退屈なパーティ。 学生時代ならこんなパーティには寄り付きもしなかったが、社会に出て幾年か経ち、剣菱の事業にも係わっている関係上、ある程度はその場の雰囲気に合わせることも、そして我慢することも悠理は覚えていた。
―――けど、もう限界。 悠理は、自分をここから救い出してくれるはずのナイトの姿を目で探した。 烏合の衆の中でも、彼の姿はすぐに見つけられる。 頭ひとつ抜きん出た上背と、人目を引く整った顔立ち。そして何よりも、その身体から滲み出る、男としての自信と輝き。 その男―――清四郎は、黒いタキシードに身を包み、彼の周りを取り囲む男たちと、如才のない様子で会話を交わしていたが、悠理が清四郎の姿を見つけるとほぼ同時に、ふと視線を悠理のほうに向けた。
少し離れた位置から見ても、悠理の立ち姿は美しい。 普段はふわふわとあちこちに跳ねている髪も、今日は後ろで優雅に纏められている。 シャンパンイエローの、シルクのスリップドレス。肩紐と胸元を飾るレースが、とても愛らしい。 清四郎は一瞬、愛しい恋人の姿に見惚れ、目を細めた。 しかし、どうもご機嫌が良くないようだ。柳眉は上がり、瞳をきらきらと燃えさせ、唇はへの字型に曲げられている。 「ちょっと、失礼」 清四郎は周りの人間に断ると、大股に歩いて悠理の前に立った。
「どうしました?」 穏やかな表情で、悠理に尋ねる。 「疲れたよ。もう、帰りたい」 悠理は彼の厚い胸に、額を寄せて言った。 そんな悠理の仕草に、抱きしめたい衝動をぐっと抑え、清四郎は悠理に囁く。
「あと、一持間ほどでお開きですよ。我慢できませんか?」 「や。早く清四郎と、二人きりになりたい」 「しょうがありませんね……」
苦笑する。 恋人が我侭を言い出すのには慣れているが、そんなに可愛らしいことを言われては、突き放すことなど出来やしない。
「待っててください。一部屋、用意してもらってきます」 清四郎は、そう囁くと、人並みをすり抜けつつパーティルームを出て行った。 悠理はその後姿を目で追いながら、幸せそうな微笑を浮かべ、グラスに残っていたカクテルを一気に飲み干した。
*****
「ふぅ…」 後ろで纏めていた髪を解き、頭を振る。ばしゃばしゃと顔を洗い、清潔なタオルで水滴をぬぐう。 素の自分に戻り、開放された気分になる。 悠理は鏡を見つめると、ふとさっきのことを思い出し、我知らず笑みを漏らした。
「わ!何これ?」
ホテル最上階の一室。 部屋に一歩入るなり、悠理は嬉しげな声を上げ、後ろに立つ恋人の顔を振り返った。
ホワイトチョコのムース、雪の中に苺が散ったようなデコレーションのケーキ、かわいらしい形のクッキー。 テーブルの真ん中に飾られた白い花の周りに、様々なドルチェが並べられていた。
「…もしかして、前もって予約してあった?」 さっき清四郎は、「一部屋、用意してもらってきます」と言ったけれど、急にこんなものが用意できるわけはない。 「ええ。今日は、ホワイト・ディですからね。バレンタインには、悠理から素敵なチョコをもらったから…」
清四郎の言葉に、悠理は赤くなる。先日のバレンタイン、急な仕事で会えなくなったと連絡してきた清四郎に、悠理はどうしてもその日の内に会いたくて、清四郎のマンションに用意していたバレンタイン・ディナーを持ち込んで待っていたのだ。 ―――チョコレート色のドレスに身を包んで。
「パーティでは、あまり食べられなかったでしょう?好きなだけ、食べていいですよ」 にっこりと笑って、清四郎は悠理の肩に両手を添えて、テーブルの前に押していく。 悠理は満面の笑みを浮かべて清四郎に向き直ると、彼の首に両手を回してキスをした。
清四郎はいつも、悠理を幸せな思いで満たしてくれる。 だから、悠理も素直に、彼への愛を態度で表す。 「清四郎、大好き」という、思いを込めて。
*****
鏡の中に、開け放したバスルームのドアの外、タキシードの上衣を脱いだ清四郎の姿が映った。 彼は長い足を組んでベッドの縁に腰掛けると、ポケットから何かを取り出す。 その手にきらりと光るものを認めて、悠理は振り返って彼を見た。
清四郎の指に、ネックレスらしきものがぶら下がっている。 悠理の視線に気付くと、彼はにっこりと笑って、それをぶらぶらと振って見せた。
「何、それ?」 「かわいいかな、と思いまして」
清四郎はそれを拳の中に隠すと、立ち上がって悠理に向かって歩いてきた。 わくわくと彼を見上げる恋人に微笑し、彼女の細い首に手を回して、そっと手に持っていたものを着け、鏡に向きなおさせた。
「すごい、かわいい!」 悠理が感嘆の声を上げる。 すんなりと、白く優美な悠理の胸元に、華奢なデザインのネックレス。プラチナのチェーンに、小さなハート型の錠前と鍵がぶら下がっている。 かわいいのに、どこかロックっぽいかっこよさも備えたデザインは、悠理にとてもよく似合った。
嬉しくて堪らないといった様子で、ネックレスのトップを手に乗せて眺めたり、鏡に映る様子を見つめたりしている悠理を、後ろから抱きしめながら清四郎が囁く。 「僕の心の鍵を、あなたに預けますよ。…なんてね」 「お前それ、似合わね〜!」 悠理が彼にもたれながら、盛大に声を上げて笑う。 「だから…冗談です」 むっとしたように、唇を尖らせて清四郎が答える。少し子供っぽい反応。
「…冗談?」 清四郎の厚い胸にもたれ、悠理は聞き返す。腰に回された、彼の手に自分の手を重ねて。 「…いえ……」 穏やかな、黒い瞳が近づいてくる。悠理が目を閉じる。熱い…キス。求め合う心のままに、深く、長く。
イラスト By ネコ☆まんまさま
「…今日は、悠理の好きなコト、いっぱいしてあげます」 唇を離した後、悠理の耳たぶを噛むようにして、清四郎が低い声で囁く。 長い指が悠理の鎖骨をすっとなぞり、大きな掌が悠理の両肩を丸く撫でるようにして、ドレスの肩紐がずらされた。
「悠理…どうして欲しい?」 低い声で囁き続ける清四郎に、悠理はうっとりと、彼の肩に頭を持たせかけた。 その瞳に映るのは、鏡の中の二人の姿。愛し合う、恋人達の肖像。
「も一度、キスして…」 甘え声でねだると、鏡の中の黒い瞳が微笑んだ。
最高のホワイト・ディのお返しは、今夜、これから、彼がくれる―――
end
(2006.3.13up)
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