胸の奥に、いつまでも浮かんで消えない思い出の数々がある。

 

幼い日の光景、父や母、家族との思い出。

けれど、一番多く胸に浮かぶのは、一番きらめいていた、あの頃の記憶。

高校時代、有閑倶楽部として共に過ごした、友人達の笑顔。

 

 

 

 

 

 

物思いに沈むとき、あたしはいつも卒業アルバムを開く。

革の表紙の内に並ぶのは、聖プレジデント学園高等部の頃の写真。

 

あたしたち、生徒会役員の6人の写真は、他のどの生徒達よりも多い。

運動部部長のあたし、文化部部長の野梨子。書記の可憐、経理の美童、副会長の魅録。

写真の中で、あたしたちはみんな、とびっきりの笑顔を見せていて、ただ眺めているだけで笑みが浮かんでくる。

 

 

そして、生徒会長の清四郎。

卒業写真の中のあいつは、どれも優しい目をしてる。

 

学生時代、まるでおもちゃかペットのように扱われていただけに、あたしの記憶の中のあいつは、いつも何か企んでいるような、少し意地悪そうな笑みを浮かべていることが多かったのに、卒業アルバムの中のあいつは、どの写真でも穏やかな笑みを浮かべていて。

最初のうちは、「あれ? こいつって、こんな顔してたっけ?」と思いながら眺めていたけれど、いつからか、写真の中の清四郎を見つめていると、気持ちが落ち着くようになった。

 

「悠理」

清四郎が、写真の向こうからそう呼びかけてくれるような気がした。

どうしました、元気がないですね?悠理らしくありませんな。大丈夫ですよ…

あの頃のように、あれこれとあたしに話しかけてくる声が聞こえるような気がして、あたしはいつも、卒業写真を眺めていた。

 

 

*****

 

 

大学に進んでからも、あたしたちは高校時代と変わりなく、つるんでいた。

大学内に確保した一室に集まり、たわいもない会話を交わし、夜遊びに出かけたり、休みには皆で旅行したり。

そして時々は小さな事件に巻き込まれたりもして、それを皆で楽しみながら解決して。

 

けれど、二年、三年と学年が進んでいくにしたがって、だんだん自分達が出て行く「社会」というものに目が向き始めた。

まず美童が、外交官になる為に母国スウェーデンに帰って、向こうの大学で学ぶ事を決め、次に魅録が、防衛大へと転出していった。

野梨子は白鹿流を継ぐ為に、よりいっそう茶の湯の修行に励むようになり、可憐もまた、ジュエリーアキを継ぐべく、大学に通いながら宝飾デザインの専門学校に通い始めた。

 

以前のように皆で暇な時間を潰す事がめっきり少なくなっていく中、清四郎は大学院に進むことを決めた。

「学者になんのか?」と聞いたあたしに、「まだ、自分が進みたいと思う道がよく見えないんですよ。大学院に進むのは、もう少し猶予期間が欲しいからですかね」と、少し困ったような顔をして言った。

 

 

皆が自分の進む道を決め、少しずつ、離れ離れになっていく。

寂しい気持ちを抱きながら、あたしは―――あたし自身は、出来ればそのまま、何も変らないままでいたいと思っていた。

 

 

 

けど、うちの母ちゃんは甘くない。

四年に進級した時、あたしは母ちゃんに呼ばれ、大学を卒業したら、うちの仕事を手伝うか、花嫁修業をしてさっさとどこかに嫁に行くか、どちらか選びなさいと言われた。

働きもせずにふらふらしている娘を、いつまでも養っていくつもりはありませんからね、と。

 

当然、あたしは嫁に行かされるのなんて真っ平だから、働く方を選んだ。

父ちゃんの様子を見ていたら、働くのなんて、そう大変なことではないように思えたし。

けれど、大学卒業後に豊作兄ちゃんに付いて仕事を始めたあたしは、すぐに自分の考えが甘かったことを思い知らされた。

父ちゃんがまるで遊び感覚でこなしているように見えた仕事も、ああ見えて実は頭のいい父ちゃんだから出来ているのであって、頭の良くないあたしにとっては、ひどく難しいことだったのだ。

 

 

毎日、慣れないスーツ姿に化粧、髪をきちんと整えるのも一苦労。

難しい漢字ばっかりの書類を読むのも大変だし、会議に出席しても、そこで飛び交う専門用語の数々が理解できない。

仕事の中で、それなりにやってみたいことも頭の中には浮かぶのに、それをどうやって言葉や形にしていいものかがわからず、右往左往するばかり。

 

 

たまに会う野梨子や可憐や魅録は、ちゃんと自分のやりたいことを見つけて、それに励んでいて、眩しいほどに輝いているのに。

あたしときたら、何をしたいのかもわからなくなり、自分に自信をなくして、余計に失敗が増えて、どんどん落ち込んでいくだけ。

 

 

そのうち、遂に母ちゃんに呼ばれて、最後通告を突きつけられた。

「悠理、やっぱりあなたに剣菱の事業は無理よ。明日からは、花嫁修業に励んでちょうだい」

深い溜息をつきながら残念そうに言う母ちゃんに、あたしは一言も返す言葉がなくて、ただ俯いた。

何も出来なかった自分が、情けなくて。

 

 

 

家をでて、あたしは一人、街をぽてぽてと歩き回った。

どこに行きたいっていうのもなく、ただ家にいるのが嫌だっただけ。

気がつけば、いつのまにか学園のそばに来ていた。

目の前を、懐かしい制服姿の女の子達がよぎっていく。

なんの悩みもなさそうに、楽しげに笑いながら。

 

あの頃は、あたしもそうだった。

未来に対して、何の心配もなく、仲間たちと笑っていられた。

誘拐されたり、南海の秘宝を探したり、幽霊に取り付かれたりと多難な日々だったけど、心底楽しかった。

どんなに困難な状況に陥っても、必ず仲間達が助けてくれると、信じていた。

 

 

一度、どうしようもなく落ち込んだとき、今と同じように学園の近くをうろついたことがあった。

人混みの中、清四郎の後姿を見つけて、無性に嬉しくなった。

昔と同じように、「わーん清四郎、何とかしてくれよ〜」って、泣きついてやろうと駆け出したとき、あたしは彼の隣に長い髪の女性がいることに気付いた。

回れ右をして、二人に背を向けて、あたしは全速力でそこから離れた。

胸が痛くて、苦しくて、心と一緒に全身の力までが抜けていくようだった。

そのひとに話しかける清四郎の横顔が、卒業アルバムで見るのと同じ、とても穏やかで優しい顔だったから。

 

学生時代、何か怖いことがあると、いつも清四郎の背中にすがった。

清四郎の背中は、広くて、温かくて、すごく安心できた。

けれど今は、もうあの背中にはすがれないんだと、そのとき思った。

清四郎の隣には、彼が愛する誰かがいるから。彼の背中は、もうその人のものだから。

 

 

あまりにも、遠くなってしまって、二度と帰れない日々。

すがれる人も無く、立ちすくむあたしに、家路を急ぐ人たちが容赦無しにぶつかっていく。

右に、左にと身体を揺らされ、景色が歪む。

喉の奥から熱い塊がこみ上げてきて、あたしは思わず両手で口を覆った。

 

 

―――助けて!

 

声にならない叫びが口から飛び出したとたん、ぼろぼろと涙がこぼれ落ち、あたしはその場にしゃがみこんだ。

助けて、助けて、清四郎。

戻りたいよ、あの頃に。

あたしがあたしらしく、生きていたあの頃に。

 

 

涙が後から後から湧き出てくる。

しゃがみこんだまま、泣き声を上げるあたしの横を、いくつもの足音が通り過ぎていく。

足早に遠ざかっていく足音。怪訝そうに立ち止まり、それから大きく迂回するように歩き去っていく音。

今また、ひとつの足音があたしの隣で動きを止め、あたしの正面に回った。

ぼやけた視界に映る、茶色の革靴。

 

 

 

「悠理? 悠理じゃないのか?」

 

突然、頭上から聞き慣れた低い声がした。

 

「どうしたんだ? こんなとこで…」

 

 

信じられない思いで、顔を上げた。

目の前に清四郎が立っていて、あたしの泣き顔を見て、驚いた顔をしていた。

 

「清四郎…」

彼の名を呼んだら、涙がふたつ、またこぼれて頬を伝って落ちた。

 

「悠理…?」

清四郎があたしの名を呼び、向かいにしゃがんだ。

大きな、温かい手があたしの頬に触れた。親指が、あたしの目のふちを拭った。

 

 

「どうした? こんなとこにしゃがみ込んで泣いているなんて。通る人に迷惑だろう?」

ぽんぽんと軽くあたしの頬を叩きながら、清四郎はわざと明るい、からかうような口調で言った。

「ほら、涙とハナを拭け」

そう言って、真っ白なハンカチを差し出す。

あたしが呆然としたまま、それを受け取れないでいると、彼は困ったように口の端を下げて、ハンカチを持ち直すとあたしの涙を拭いてくれた。

 

「どこかでお茶でも飲みましょう。さぁ」

清四郎はあたしの手を引っ張って立ち上がらせると、そのままあたしの手を引いて歩き出した。

 

 

目の前に、清四郎の背中があった。

高校時代、何かあるといつもすがっていたその背中。

時が経ち、いつの間にか遠くに感じていた、広い背中。

 

心の中に、安堵感が広がっていく。

もう大丈夫。清四郎が、いてくれる。

 

あたしはまるで、母親に会えた迷子のような気分で、手を引かれるままに彼の後を歩いた。

 

 

*****

 

 

その後、連れて行かれた喫茶店で、あたしは清四郎に泣いていた理由を話した。

仕事のこと、胸の中の不安、母ちゃんの言葉。全部、全部話した。

 

清四郎はあたしの話を聞くと、すぐにあたしと一緒に剣菱の家に帰り、父ちゃんと母ちゃんに、「僕を剣菱で働かせてください」と言った。

「僕に、悠理をサポートさせて欲しい。悠理が、剣菱に必要な存在だということを、証明してみせます」と、言ってくれた。

父ちゃんと母ちゃんは驚きつつも、大喜びで清四郎を剣菱に迎え入れた。

 

 

それから、清四郎はあたしと組んで、剣菱の色々な新規事業の展開に加わった。

清四郎が次々に出す計画やアイディアは、学生時代と変らずに独創的で、面白くて、あたしの胸をワクワクとさせて。

あたしの頭の中で、形にならなかった考えも、清四郎が全て汲み取って形にしてくれたから、あたしは夢中になって彼の言うままに動き回り、二人がかかわった事業は全て成功を収めていった。

そうしていつしか、あたしたち無しでは剣菱は回らないとさえ、言われるようになっていった。

 

 

 

そして、高校を卒業してから8年目の春。

またひとつ大きなプロジェクトを成功させ、あたし達は大勢の部下を引き連れて、行きつけの店で盛大に祝杯を挙げた。

帰り道、ほろ酔い加減のあたしは鼻歌を歌いながら、清四郎と二人で人気のない夜の道を歩いていた。

 

春の柔らかな風が、頬を撫でていく。

どこからか、かすかに漂ってくる甘い花の香り。

藍色の空には、おぼろに浮かぶ月。

 

 

「ああ、気持ちいいな。今あたし、最っ高ーの気分! ありがとう、清四郎」

ここちよい酔いも手伝って、あたしは気恥ずかしくて普段言えないような感謝の言葉を、清四郎に伝えた。

「どういたしまして」

くすくすと笑いながら、清四郎は悠揚と歩く。

その穏やかな表情を見ていたら、あたしは彼にずっと聞きたかったことを聞いてみる気になった。

 

 

「ねぇ、なんで清四郎は、剣菱に入る気になったんだ? なんで、あたしをサポートしてくれる気になったの?」

彼の横顔を、見上げながら聞いた。

「何でって…悠理が僕に、助けを求めてきたんでしょう?」

悪戯っぽい目をして、清四郎は答えた。

「あたしが…?」

 

あたしは、清四郎に「助けて」と口に出しては言わなかった。

けれど、ずっと心の中では彼にすがりたいと思っていた。

そんなあたしの弱さも、清四郎はお見通しだったんだろうか。

 

じっと清四郎の顔を見上げて、あたしが万感の思いに浸っていたら、急に清四郎がくっと笑った。

あたしの頭に手を伸ばして、髪をくしゃ、とかき混ぜ、逞しい腕であたしの頭を抱えると、ぐっと引き寄せた。

思いがけない彼の行動に、胸がドキドキとした。

 

 

「僕はあの時、悠理が泣き続けるのが、堪らなかったんです」

 

静かな清四郎の声が、彼の胸に押し付けられた耳に、響いてきた。

 

「青臭い言葉ですけど、僕が青春と呼べるときの事を思い出すと、いつもその真ん中に笑っている悠理の姿があったんです。悠理には、あの笑顔を無くして欲しくない。いつまでも変らずに、あの頃のままのお前でいて欲しい。そう思っていた。

その為に、僕が出来ることがあるなら、なんでもしてやりたいと思った。だから…」

 

「だから、助けてくれたの?」

 

「まぁ、そういうことですね。でも、本当は…」

「本当は…?」

あたしは、清四郎の顔を見上げた。清四郎は、とても優しい目であたしを見下ろしていた。

学生時代よりも、ずっと鋭角的になった顎のラインが、あたしたちが過ごしてきた日々の長さを思わせる。

清四郎は、いったん開きかけていた口をつぐんで、またあらためて開くと、こう言った。

 

「お前は、僕の助けなんか無くっても、ちゃんと一人でやれるんですよ。ただちょっと、やり方がわからなかっただけだ。そうでしょう?」

 

「一人で」。その言葉に、あたしの胸がずきんと痛んだ。

清四郎なしで、あたしはやっていけるんだろうか?

いつもそばにいて、あたしを叱咤激励してくれた、この人なしで。

 

 

「…イヤだよ……」

もう何年も、流す事のなかった涙がこぼれる。

「清四郎なしでなんて、いられないよ。仕事も、なにもかも…」

 

見上げた清四郎の瞳が、わずかに見開かれた。

形のいい唇が一瞬ぎゅっと結ばれ、それから、あたしの名前を形作った。

あたしの頭を抱いているのとは別の手が、あたしの頬を包む。

親指が、ゆっくりと涙を拭いとった。いつかと同じように。

 

清四郎の唇が、あたしの頬に触れ、それから、唇に合わせられた。

柔らかくて、温かい感触があたしの唇を包み、それが離れた瞬間、ぎゅっと両の腕で抱きしめられた。

 

 

「なら、結婚しよう。悠理」

耳元で、優しい声がした。

 

 

「ずっと、一緒にいよう。」

 

力強く言われた言葉に、あたしは、しっかりと頷いた。

彼の背中に、両手を回す。

いつだって、ずっとあたしを安心させ続けてくれた、広い背中に。

 

 

「本当は、ただお前のそばにいたかった。とうに気付いていましたよ、自分の気持ちには、ね」

 

抱きしめる腕に力を込めて言う清四郎に、また「やられた」と思った。

いつだって、清四郎には先を越されてしまう。

あたしだって、とうに気付いていてもよかったのに。

すがりたかったのは、ただ清四郎にそばにいて欲しかったから。

仕事も含め、あたしがあたしらしくいられるのは、彼がいてくれるからこそ。

 

 

 

清四郎の記憶の真ん中にあたしがいたように、あたしの青春の思い出のまん真ん中には、いつだって清四郎がいた。

 

思いに沈むときに、開く革表紙の中には、これからの二人の記憶がたくさん、積み重ねられていくだろう。

 

 

いつだって、彼の存在こそが、あたしの青春、そのものだから。

 

 

 

 

end

(2007.4.9up)

 

 

企画のお部屋

 

 Photo by hachiさま