Dog&Dog
By
hachiさま
ここ数日、冬を忘れたかのような小春日和が続いている。
陽だまりに腰を下ろしていると、今が真冬だということを忘れてしまいそうだ。
清四郎は、陽光があまりに眩しくなり、読んでいた本を閉じた。
広大な運動公園には、隅々まであたたかな陽光が降り注いでいる。陽光は白いページの上にも落ち、文字を追っているだけで眼が痛くなった。
腕時計で時間を確認してから、栞を挟んで、本を閉じる。 顔を上げると、色褪せた芝生と、冬の淡い青空が、視界いっぱいに広がった。
休日の昼間。運動公園は、楽しげに遊ぶ家族連れの姿でいっぱいだ。ピクニックシートの上に仲良く寝転ぶカップルの姿もあちこちにある。完全にふたりの世界に入っているカップルの頭の傍では、太ったミニチュアダックスフンドが暇そうに欠伸をしていた。
まるで絵に描いたような長閑な風景だ。 清四郎は、閉じた本を芝生の上に置いて、ふう、と意味もなく深い息を吐いた。 長閑すぎると、人間、意味もなく溜め息を吐きたくなるものらしい。
のんびりとした風景の中、公園で遊ぶ子供たちの誰よりも跳ね回っている、連れの姿を眼で追う。 真っ黄色のダッフルコートを着た悠理が、十歳前後の少年たちに交じって、サッカーボールを追いかけている。あんな派手なコート、いったいどこに売っているのだろうか。 悠理は子供相手に熱くなっている。気の弱そうな男の子など、悠理が近づくと逃げていくのだから、その過熱ぶりがよく分かる。
悠理の精神年齢は、きっと彼らより下だろう。 いや、転がるボールに熱中する姿は、人間というより犬である。 そんな失礼なことを、つい考えてしまい、清四郎は小さく苦笑した。
悠理が思いきりボールを蹴った。 ボールは弾丸のごときスピードで飛び、弾道にいた少年たちは怯えてその場に伏せた。 受け止める者がいないボールは、幸いにも家族連れやカップルに激突することなく、植え込みに当たって、芝生の上をころころと転がった。
少年のひとりが、走ってボールを取りに行く。蹴り上げられたボールは放物線を描きながら、皆の中心に吸い込まれていった。 いの一番に、悠理がボールに向かって駆け出した。 しかし、これ以上、悠理を野放しにしていると、本当に怪我人が出てしまいそうだ。そうなる前に、悠理を捕獲しなくては。 清四郎は、立ち上がって悠理の名を呼んだ。
「悠理!」
大声で呼ぶと、それまで懸命にボールを追っていた悠理が、ぴたりと止まった。 悠理がいきなり止まったので、周囲の少年たちも、つられて止まる。 いくつもの円らな瞳がこちらに集中したので、清四郎は少しばかり戸惑った。
悠理が清四郎のほうを向く。 向いたと思ったら、今度はいきなりこちらに向かって駆け出した。
悠理は猛スピードでぐんぐん近づいてくる。 最初は笑顔で迎えていた清四郎も、彼女がいっこうにスピードを落とさないことに気づき、頬を引きつらせた。
「せいしろーーっ!!」
全力疾走からの跳躍。
悠理は、とんでもない勢いのまま、清四郎に飛びついた。
全身を、もの凄い衝撃が襲った。 飛びつくなどという可愛い表現では済まされない。アメフトのタックル並みである。 構えていなかったら、いくら清四郎といえども、後ろに吹き飛んでいただろう。
「つっ・・・」
鞭打ち寸前の衝撃に、清四郎は小さく呻いた。 衝撃の源である悠理は、清四郎の胸に顔を押しつけて、くふふ、と嬉しげに笑っている。きっと清四郎が受けた衝撃の大きさなど、気にしてもいないだろう。 清四郎は、悠理に抱きつかれた状態で、呆れた声を上げた。
「お前は犬ですか!?」
呼ばれたら全力で駆け寄ってきて、飛びかかる。 愛玩犬ならともかく、悠理並みに巨大な大型犬―― 否、大型犬並みの悠理に飛びつかれては、堪ったものではない。
清四郎の叱声を聞いた悠理が、ひょい、と顔を上げた。 きらきらした眼で清四郎を見上げ、何をするのかと思ったら、ひと言、こう言った。
「わん!」
無邪気で陽気。外を駆け回るのが大好き。 そして、「遊んで」と訴える表情の、何とも言えない愛くるしさ。 これはまさに犬ではないか。
悠理犬の可愛さにすっかり懐柔されてしまった。 清四郎は、自分の甘さに呆れ、やれやれと苦笑しながら、彼女の髪を撫でた。
「清四郎、遊ぼ!」
悠理がにこにこ笑いながら誘う。 輝く瞳は純粋で、本当に犬のようだった。
清四郎は、近くに落ちていた木の枝を拾った。 そして、それを悠理の鼻先に突きつけた。
「??なに??」
意図が分からないのか、悠理はきょとんとしている。 清四郎は、枝を遠くに放り投げながら、悠理に向かって叫んだ。
「取ってこい!」
「するか!」
悠理が顔を赤くして怒る。 清四郎は、その様子を観察しながら、ふむ、と思案顔で首を捻った。
「やはり木の枝では興味をそそられませんか。」 「言っておくけど、食べ物を投げても取りに行かないからな!」
噛みつきそうな勢いで怒鳴る悠理を無視して、周囲を見回す。 数メートル先に、誰かが忘れていったらしいフリスビーが、寂しげに転がっていた。 清四郎は、おもむろにフリスビーを拾い上げると、悠理に向かって腕を突き出した。
「これを上手にキャッチできたら、今晩、満漢全席を奢りますよ。」
聞いた瞬間、悠理の顔が輝いた。 「ホント!?」 単純極まりない悠理を見つめながら、悠然とした微笑で、大きく頷く。 「ええ、約束します。ほら!」 清四郎は、言い終わらないうちに、フリスビーを宙に放った。
「わわ!」 悠理が慌てて駆け出す。 そのスピードは、サッカーボールを追いかけていたときの比ではない。 ぐんぐんとフリスビーに接近していき、斜め上に跳躍して、空中で見事にキャッチした。
実に見事なキャッチだった。 感心した清四郎は、思わず拍手を送った。
「悠理は優秀なフリスビードッグになれますねぇ。」
独り言のつもりだったが、地獄耳の悠理にはしっかり聞こえていたらしい。 笑顔で駆け寄ってきた顔が、急に険しくなった。 「だから、あたいは犬じゃないって言っているだろ!?」 そう叫ぶと、悠理は主人のもとに持ち帰るべきフリスビーを、地面に叩きつけた。 「帰る!」 悠理は捨て台詞を吐いて、くるりと踵を返した。
「満漢全席はいらなんですか?」 「いらない!」
どうやら本格的に機嫌を損ねてしまったらしい。 清四郎は、去りゆく後姿に向かって、ひょい、と肩を竦めて見せてから、走り出した。
追いつかれたのは気配で分かっただろうに、悠理はいっこうに振り向かない。 肩をいからせて、ずんずん大股で進んでいく。 清四郎は、後を追いかけながら少し前屈みになって、悠理の耳元に顔を寄せた。
「いくら僕が寛容な性格でも、犬を彼女にしようとは思いませんよ。」
悠理の足が、ぴたりと止まった。 「・・・誰が寛容な性格だよ?思いっきり心が狭いじゃないか・・・」 清四郎は、振り返らない悠理の頭に手を置き、柔らかな髪をくしゃりと掻き回した。 「悠理に対しては、ずいぶん寛容だと思いますけど?」 答えながら、悠理の背中にぴたりと身体を寄せる。
「それに、僕には犬を抱いて眠る趣味はありませんし。」
鉄拳が飛んでくる前に、清四郎は悠理の身体を丸ごと抱きしめて、動きを封じた。
休日の運動公園。
広大な芝生の広場で遊ぶ人々は、いけないものを見てしまったかのように、いっせいに二人から目を逸らした。
清四郎は、しばらくの間ずっと悠理を抱き締めていたが、ふと思い出したように片腕を外した。 掌を上にして、悠理の胸元に持っていく。 「悠理。最後に『お手』をしてくれませんか?」 案の定、悠理の頬が、ぶう、と膨らむ。 「やっぱり犬扱いじゃん!」 怒る悠理の頭に顎を乗せて、できるだけ優しい声で囁く。 「最後ですから、ね?」 甘い声で懇願され、悠理も機嫌を直したようだ。 「まったく・・・最後だぞ。」 ふてくされつつも、ちゃんと言うことを聞くところがまた犬っぽい。 またもや悠理には聞かせられないことを考えながら、清四郎は悠理を開放して彼女の正面に回った。
「お手。」
しぶしぶ手を出す悠理。 清四郎は、自分の掌に載せられた手を掴むと、一気にくちびるを近づけた。
「ぎゃあ!」
いきなり手の甲にキスをされ、驚いた悠理は潰れた悲鳴を上げた。
清四郎は、キスの最後に舌を出して、手の甲を、ぺろり、と舐めた。 ふたたび悠理が悲鳴を上げる。 「ななな、何するんだ!?」 慌てふためく悠理に向かって、清四郎は意地悪く微笑んだ。
「ね?犬扱いしていないでしょう?」
「・・・・!!」
真っ赤な顔で絶句する悠理は、確かに犬ではなく、立派な女の子であった。 恋人の初々しく恥じらう姿もまた可愛いらしい。 そう思う自分の馬鹿さ加減がおかしくて、清四郎は声を上げて笑った。
「笑うな!」
運動公園じゅうに悠理の怒声と、清四郎の笑い声が響き渡り、やがて、よく晴れた冬の空に吸い込まれていった。
何にしても、二人の喧嘩は犬も食わないレベルである。
end
(2007.1.6up)
|