By hachiさま
悠理が何の前触れもなく、いきなり清四郎の部屋に飛び込んできたのは、せっかちな冬の宵がとっくの昔に過ぎた、寒い夜のことだった。
「清四郎、聞いてよ!みんな酷いんだ!」 部屋に飛び込むなり、悠理は涙声で訴えながら、清四郎の腕にしがみついた。
悠理がアポイントもとらずに菊正宗家を訪れるのは、そう珍しいことではない。 配慮が欠落しているというか、無神経というか、とにかく彼女は他人の都合を考えずに行動する。清四郎が帰宅すると、悠理がちゃっかり食卓について夕食を食べていた、などということもしばしばだ。
悠理は無神経だ。単細胞が災いし、我儘放題のお嬢様と誤解されることも多い。 だが、ああ見えて情にあつい一面もあるし、感性は人並み以上に豊かだ。そして、極度の寂しがり屋でもある。 何かあると、すぐ誰かに甘えようとする。まるで親犬とはぐれた仔犬のように擦り寄ってきて、いつまでもくっついている。いきなり清四郎の家を訪問するのも、そんな性格ゆえだだろう。
今回の来訪の理由も、そういう甘えん坊の部分が顔を出したということか。 清四郎は、苦笑まじりの溜息を吐きながら、悠理を見下ろした。 悠理は清四郎の腕にしがみついて、じっとしている。俯いているため、清四郎の目からは、ふわふわの髪しか見えない。よほど寂しいのか、丸くなった背中が、時折、小さく震えた。
清四郎は、少し眉を上げてやれやれと苦笑し、彼女の肩に手を置いた。 「で、今日はどうしました?」 肩に置いた手を軽く動かし、顔を上げるよう促す。しかし、悠理は俯いたままだ。 頑なに俯く姿に、ようやく普段と違うものを感じ、清四郎は僅かに眉を顰めた。
「悠理?」
俯く悠理の顔を、身を屈めて覗き込む。 そして、その顔を確かめた途端、かけるべき言葉を見失った。
大きな瞳は、今にも落ちそうな涙の膜で盛り上がって見えた。
「・・・みんな・・・酷いんだ・・・」
悠理が絞り出すように呟いたのと同時に、その瞳から涙が一滴、転げ落ちた。
悠理はよく泣き、よく怒る。だから、清四郎も彼女の涙は慣れている。 なのに、慰めるときはいつも戸惑いを感じた。 彼女の涙は、いつも幼稚な理由で流すものだと決まっているのに。
とりあえず、悠理の頭を掌で包み、ゆっくり撫でる。 猫っ毛の柔らかな感触が、指に心地よかった。
黙って頭を撫でていると、しばらくして、ようやく嗚咽が収まってきた。 安堵したのか、悠理が清四郎の腕に額を擦りつける。 悠理は清四郎の服をぎゅっと握りしめ、掠れた声でこう言った。
「・・・もう、みんなとは絶交だい・・・あんな奴ら、大嫌いだ・・・」
嗚咽交じりに訴える声。言葉は棘だらけだが、口調は酷く哀しげだ。 清四郎は、悠理の頭に顎を寄せた。 悠理の体温を、直接、肌に感じる。全身で頼ってくる温もりが、奇妙なほど心地よかった。
「何があったか話してくれなければ、いくら僕でも分かりませんよ。ほら、鼻をかんで。ちゃんと話せますね?」
引き寄せたティッシュボックスを悠理に差し出して、優しく説く。 悠理は嗚咽しながら、大きく頷いた。 その拍子に大粒の涙がまた零れ、清四郎の左胸に転げ落ちた。
今日の放課後、清四郎は、あるサークルの会合に参加するため、授業が終わると同時に学校を出た。 その後、残る面子は、いつものように部室でそれぞれ好き勝手な時間を過ごしていたらしいのだが、ふとしたことで悠理が皆を怒らせてしまった。
そこで素直に謝っておけば、話がこじれることはなかったのだが、悠理の負けん気の強さは、謝罪を良しとしなかった。 頑なに謝ろうとしない悠理を、皆は口々に批難した。四人から揃って責められ、すっかり頭に血の昇った悠理は、売り言葉に買い言葉で、開き直った。
その不遜な態度に、皆はもちろん激怒した。 結果、悠理は四面楚歌の状態に陥り、ここで清四郎に縋って泣く羽目になったのだ。
説明の途中で、悠理は本格的に泣きじゃくりはじめた。幼児でもあるまいに、涙と一緒に鼻水まで垂らしている。これでは、とてもティッシュ程度では間に合わない。既にダストボックスの中には、丸めたティッシュの小山ができている。 清四郎は、悠理の頭を撫でながら、溜息混じりに苦笑した。
言葉足らずの説明で全貌を知るのは難しいが、悠理が悪いことをしたと思っているのは確かである。 そして、中立派に回ることの多い魅録や、仲介役の美童まで激怒したところからして、本当に悠理が悪いのだと予想がつく。男性二人がそうなのだから、女性たちは言わずもがな、である。 なのに、悠理は謝らなかった。皆から責められ、最後はそっぽを向かれても。 原因は、子供じみた意地だろう。四面楚歌の状況下、片意地を張る悠理の姿が、容易に想像できた。
「・・・ひっく・・・もう、みんな嫌いだもん。絶対に謝るもんか・・・」 悠理は止まらぬ嗚咽を漏らしながら、清四郎の腕に額を擦りつけている。 「みんな、大嫌いだ・・・うっ・・・うっ・・・あんな奴ら・・・嫌いだ・・・」 嫌いだと繰り返しながら、悲しそうに肩を震わる姿は、まるきり幼児である。 皆から拒絶され、深く傷ついているくせに、言葉は棘だらけとは、まったく困りものだ。
嫌われたなら嫌ってしまえ。傷つけられる前に拒絶してしまえ。 悠理の単純な思考回路が手に取るように分かり、清四郎はふたたび苦笑した。
清四郎は、辛抱強く悠理が泣き止むのを待った。 落ち着いたのを見計らい、腕にくっつく悠理を引き剥がす。 途端に、悠理の顔が不満に膨らむ。まだくっついていたいのに、と言いたげな表情だ。 「お前は本当に仔犬ですか。」 くすくす笑いながら、悠理の顔に向かって、ティッシュボックスを軽く投げる。 清四郎の不意打ちに、悠理は、ぎゃ、とあまり可愛くない悲鳴を上げながら、鼻先でティッシュボックスをキャッチした。
くちびるを尖らす悠理を置いて立ち上がり、壁面を覆う本棚の前に向かう。 整然と並んだ背表紙の行列を、左から順に指先でなぞる。清四郎本人は気づいていないが、これは本を取り出すときの癖である。明確に場所を覚えていても、つい背表紙の列をなぞってしまうのだ。
目的の本は、記憶どおりの場所に納まっていた。 取り出したのは、小学生の頃に使っていた星座図鑑だ。幼い頃、繰り返し読んだので、角はすっかり擦り切れていた。
図鑑を持って、悠理の傍に戻る。 悠理は、泣いて赤くなった眼を見開いて、興味深げに清四郎の手元を覗き込んでいる。 清四郎は、もう一度、悠理の頭を撫でると、馴れた手つきでページを繰った。
何度も繰り返し眺めていたせいか、久々に開いたというのに、探していたページは、すぐに見つかった。
冬の空。 凍てつく夜のスクリーンに、星たちが精一杯の光を放っている。 幼い頃、夢中になって眺めた宇宙の写真だ。
清四郎は、暗黒の宇宙でひときわ輝く星の集団を指差した。 「悠理は、この星を知っていますか?」 予想どおり、悠理は首を左右に振った。 清四郎は、あどけない悠理を見て微笑むと、ふたたび図鑑に目を落とした。
「この星は『昴』と言うんです。」
昴。
数多の星が集まって輝く、連星。
いきなりはじまった星講座に、悠理は顔を顰めている。 「なんだよ、いきなり。」 清四郎は、しかめっ面に向かって微笑んだ。 「今のお前にぴったりだと思うから、話をしているだけですよ。」 そう言いながら、目を大きく開いて、悠理の顔を覗き込む。 間近から顔を覗き込まれた悠理は、そっぽを向いて、不承不承といった感じで頷いた。
図鑑を悠理の膝に乗せる。悠理は慌てて図鑑を掴み、膝からずり落ちないよう、両手で支えた。 清四郎は、悠理の膝を覗き込み、図鑑の星を指で撫でた。 「昴は、ひとつの星ではないんです。」 「・・・そのくらい、写真を見たら分かるぞ。」 不機嫌な声を出す悠理の頭を、また撫でる。こちらも清四郎本人は気づいていない、癖のひとつであった。 「写っていない星も、たくさんあるんですよ。」 指を滑らせ、写真の下の説明文を示す。 「昴は、星団です。120もの星が集まって作り出した輝きですよ。」 「・・・それが、なんだよ?」 清四郎は、困ったように微笑しながら、また悠理の頭を撫でた。
「昴はね、たったひとつでは輝けない星たちの集まりなんです。」
悠理の泣き腫れた眼が、大きく見開かれた。 清四郎は、悠理に向かって、にっこり微笑んでみせた。
「だから、昴の語源は、統ばる。集まって、ひとつなるということです。」
返事の代わりに、悠理が、ずず、と盛大に鼻を啜った。 「だから、何が言いたいんだよ?」 くちびるを尖らす悠理。その頭を、くしゃり、と撫でる。
「分かりませんか?昴の星たちは、集まって力を合わせることで、他の星に負けない輝きを放つことに成功したんですよ。」
また、悠理が鼻を啜る。 「意味、わかんない・・・」 ぼそり、と呟いて、頬を膨らます。 それを聞いた清四郎は、仕方ありませんね、と言って、苦笑した。
清四郎は、ふたたび立ち上がって、窓を開けた。 途端に、透明な夜気が、暖かな部屋に滑り込んでくる。 「寒い!」 身を縮める悠理を余所に、清四郎は窓から顔を出して夜空を見上げた。 「さすがにここからは見えませんね。」 昴は冬の星だ。だが、東京の夜は明るく、広大な空は乱立するビルに阻まれて、星はほとんど見えない。 早々に諦めた清四郎は、身体を反転させ、部屋の中を振り返った。 「冷気に当たったら、悠理の頭も活発に活動すると思ったんですけど、どうですか?」 「知るか!」 ムッとして答える悠理を見て、清四郎が柔らかく微笑む。 「反論する元気が戻ったなら、もう大丈夫ですね。」 「え?」 ぽかんと口を開ける悠理。清四郎は彼女に背中を向けて、窓を閉めた。
清四郎は、ふたたび室内に身体を向けると、窓に背中を預けた。 清冽な夜気が、窓ガラスとセーターを通り抜けて、背中まで伝わってくる。 冬の冷たさを楽しみながら、少し首を傾けて、悠理に問うた。
「まだ分かりませんか?」 「お前とは頭の構造が違うんだ。分かるわけないだろ。」 不機嫌顔の悠理。だが、膝に抱いた図鑑を放り出そうとはしない。 清四郎は、聞き分けのない生徒に向かって、オーバーに苦笑してみせた。
「僕たち人間を、星に喩えたら、分かるでしょう?」
悠理が図鑑に視線を落とす。 清四郎は、静かに言葉をつづけた。
「昴は、ひとつひとつは弱い光しか放てなくても、集まることで眩しく輝けるようになりました。人間も同じです。一人ひとりの輝きは弱くても、皆が集まれば、とんでもない光を手に入れられるかもしれない。そう思いませんか?」
悠理は、きょとん、としている。 あどけない、子供のままの表情だ。
「人間も、星と一緒なんですよ。」
清四郎がそう言うと、悠理はくちびるを結んで、俯いた。 しばらくの間、俯いて動かなかったが、いきなり図鑑をベッドに置いて、立ち上がった。 何をするかと思ったら、まっすぐ窓辺に近づいきて、握った拳で、清四郎の胸を軽く打った。 「・・・あたいは、ちっぽけじゃないぞ・・・」 「そうですね。」 あっさりと同意し、また悠理の頭に手を置く。 「でも、他の星と力を合わせたら、もっと強く輝けますよ。」 少しばかり乱暴に頭を撫でると、悠理はふたたび俯いてしまった。
「・・・だから、謝れって言うのか?」 「まあ、平たく言えばそうですね。」
それに、と清四郎はつづけた。 「今の悠理は、ちっぽけな星の輝きにも負けていますからね。普段の輝きを失って、今にも消えてしまいそうですよ。」 髪を掻き回す手に、少しだけ力を籠めて、手前に引く。 とん、と小さな音をたてて、悠理の頭が清四郎の胸の中に収まった。 「・・・清四郎が一緒にいてくれるなら、他の皆なんか、いらないもん・・・」 胸の中から、くぐもった呟きが聞こえる。 それを聞いて、清四郎は柔らかく笑んだ。 「嬉しいことを言ってくれますね。」 話しかけながら、ふわふわの茶色い髪を、からかうように、くしゃりと撫でる。
「でも、二人だけでは『統ばる』にはなりません。」
「・・・?」 悠理が顔を上げて、怪訝な表情で清四郎を見た。 清四郎は、その顔に向かって、にっこり微笑みかけた。
「通常、肉眼で確認できる昴の星は、六つなんです。それから取って、昴のことを六連星とも呼ぶんですよ。」
「・・・六つ・・・」 悠理が小声で復唱する。 きっと、その頭の中には、自分以外の五つの顔が浮かんでいるに違いない。 「なかなか素敵な符号だと思いませんか?」 悪戯っぽくウインクし、首を曲げて、窓の外を見る。 もちろん首都圏では、満点の星空など見えるはずもない。それでも清四郎は、ビルの谷間の上に広がる、明るくぼやけた夜空を見つめていた。
一呼吸おいて、悠理に視線を戻す。 いつの間にか、悠理も窓の外を見つめていた。 その表情は、先ほどの泣き顔より、ずっと大人びて見えた。
しばらくの沈黙ののち、清四郎は、悠理に笑いかけた。 「どうせ輝くなら、皆で一緒に、派手にいきましょう。そのために必要なことは、分かりますね?」 少し眉を上げて、回答を待つ表情をつくる。 すると、悠理は照れ隠しのつもりか、大袈裟に顔を顰めた。 「・・・お前、くさい。」 悠理のしかめっ面を見て、清四郎は、にやり、と笑った。 不穏な気配を感じたのか、悠理が身を固くする。
「でも、そんなところも、好きなんでしょう?」
瞬間、悠理の顔が火を噴いた。
悠理はいつも清四郎に助けを求める。 何かあれば窮鳥のように懐へ飛び込んできて、全身で甘える。
言葉にしなくても、そんな態度がすべてを雄弁に語っていた。
「・・・な、なに言ってるんだ!お前!?」
真っ赤になってうろたえる悠理を、問答無用で抱きしめる。
悠理は逃れようともがいているが、清四郎に手離す気はさらさらない。
「僕がずっと一緒にいてやる。だから、明日はきちんと皆に謝りましょうね。」
暴れる耳元で囁くと、急に抵抗が止んだ。
「・・・本当・・・?」
清四郎は、華奢な身体を束縛していた腕を緩めた。
「ええ、本当に。」
言葉の意味を確かめるように、おずおずと、悠理の腕が清四郎の背中に回る。
「・・・清四郎が一緒なら・・・明日、謝る・・・」
「よく出来ました。」
清四郎は、微笑みながら呟くと、緩めていた腕にまた力を籠めた。
連なって輝く、六つの星。 ともに在るからこそ、強く輝ける。
だけど、悠理という星の隣は、誰にも譲る気はない。
今までも。今も。これから先も。ずっと。
冬の空には、透き通った星たちが輝いている。
―――― 昴
牡牛座にある散開星団プレアデスの和名。二十八宿の一、昴宿(ぼうしゅく)。六連星(むつらぼし)。 動詞「統ばる」 集まって一つになる。
end (2007.12.29up)
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Material by 深夜恒星講義 さま