「soul kiss」
歓喜の高い声。しっとりとした抱擁。 がっしりと固まった握手。 大きな荷物を抱え、疲れた表情と笑みを混同させている人々。 成田空港の到着ロビーは大様にして和やかだった。
「悠理ぃ、ちょっとは落ちつきなさいよ。まだ後二時間もあるのよ」 可憐の溜息交じりの呆れた声に、悠理は足を止めると振り返った。 「な、何言ってんだよ。あたいは別に、何も・・・」 だが先ほどからずっと、帰国する人の波を見つめては、忙しなく席を立ったりまた戻ったり、ちっとも落ち着いてなんていなかったのだ。 「可憐、放っといてやれよ。今日は特別なんだしな」 「そうですわ。四年半も待ったんですもの」 「ま、四年半って言っても最初の半年はともかく、その後は月に一度、それも最低でも一週間は向こうに行っていたけどね〜」 そりゃそうだ、と美童の言葉に四人は声を上げて笑った。 「う、煩いぞ!大体、なんなんだよ。なんでお前らまで来るんだよ!」 真っ赤になって無駄な反抗をする悠理に、更にみんな可笑しそうに笑った。 今日は四年半前、たった三週間の猶予しか残さず突然英国に留学してしまった清四郎の帰国の日だった。
四年と六ヶ月。 悠理にとってはどうしようもなく長い日々だった。 美童の言うとおり確かに月に一度、清四郎の元へ通った。 だが、それまでずっと傍にいた愛しい男にたった一週間しか会えない生活は、また四週間経てば再会出来るとは言え、かけがえのないものであった。 それは、悠理にとっても周囲の人間にとっても。 清四郎のいない生活は、悠理から会心の笑みを奪い、代わりに憂色を押し付けた。 悠理を、悠理ではなくした。 しかし、その辛い生活も今日終わりを告げる。 予定通りなら、後二時間後。清四郎を乗せた機体がこの地に降り立つ。 そして、四年前の―――半年の時を経て再会した海で交わした約束が実を結ぶ時が来る。 (あいつ、覚えてるかな・・・・)
魅録はふいっと顔を背けてしまった悠理の頭を軽く小突いた。 「そりゃお前はいつも会ってただろうけどな。俺達は本当に四年半ぶりなんだぞ。ちょっとぐらい会わせろよ」 冗談めかして言うと、悠理の頬が少し染まった事に安堵した。
四人は、本当は今日遠慮するつもりだった。 悠理が、日本にいる間・・・清四郎に会えない時間を、本当に切なく思っているのを知っていたからである。 確かに自分たちも離れていた親友と再会したい気持ちはある。が、それ以上にふたりの邪魔をしたくはなかった。 この四年半の間も清四郎に会いに行こうと思えばいつでも会いに行く事は出来た。 それを敢えてしなかったのは、ふたりを思ってこその事だった。 英国から帰国する悠理の、回数を経る毎に変わっていく様が、ふたりで過ごす向こうでの時間を如実に物語っていた。 それでもこうして、そんな悠理をからかいながらここにいるのは、彼女を一人にさせるわけにはいかなかったからである。 毎日、清四郎の帰国の日を指折り数え、遠くを見つめては溜息をついていた悠理。 皆の前では強がってはいたが、一人待たせれば、まだその機体も遥か彼方の空にある頃から、頬に止め処なく雫を零す事は想像に難くなかったのだ。 せっかく帰ってくる清四郎に、一瞬でもそんな悠理は見せられない。
「ね、ね、清四郎変わった?今どんな風な仕事してるのさ」 仕事とは言っても無論、留学生の身である為正式に雇われているわけではない。 だが父親の友人の仕事を手伝う内に非公式に、悠理に言わせれば裏で――、一つのプロジェクトを仕切る事になったのだという。 プロジェクト自体もちろん正当なものである。その為極一部の人間にしか清四郎の活躍は知られていないらしかったのだが。 今回、そのプロジェクトが軌道に乗った為に漸くの帰国となった。 四年前、自分に自信がつくまで帰らないと言っていた清四郎が帰国を決める所以になった“成功”である。それはかなりの大きな仕事だったのだろうと、四人は思っていた。 「別にあいつは全然変わってないぞ。仕事って言っても、あたいらん時みたいにあいつは計画立てて後ろで手を引いてって感じでさ。詳しいことはよくわかんないけど、おっちゃん・・あいつが向こうで手伝ってた人がいるんだけど、その人がすっごく喜んでてさ、このままここに残れとかって言っちゃって、大変だっ・・・ってなんだよ、その顔」 悠理は美童の表情に気付くと、途端に眉間に皺を寄せた。 「いやぁ、そんなにあからさまに惚気られちゃうとねぇ」 にやけていた美童は、同意を求めるように他の三人に向き直る。 悠理はそれを追うように足を一歩踏み出した。 「別に惚気てなんかないだろ!あいつは全然変わんないって!そう言って―――・・・・
」 突然時が止まった錯覚に陥った。 まるでエアポケットに落ちる瞬間、無重力のように。 ふわりと、慣れた懐かしい、恋しい匂いが悠理を包みこむ。 確かに視界に自分をからかうように笑う友人が映っているのに、悠理には何も見えていなかった。 ただ、後ろから体を締め付ける温もりが、全てを支配していた。
「変わってないとは心外ですねぇ。あんなに頑張ったのに。これじゃぁまたもう四年、向こうで修行しなおさなければいけませんかね」
その声はまるで頭の中に直接響いているようだった。 真っ白な、頭の中に。 耳元に熱い息がかかり、体が更に締め付けられる。 胸が苦しくなった。 「せ、清四郎・・・・」 振り返らなくてもわかる。 今度こそ、視界が曇った。 頬に熱いものが流れていくのもわかった。
「ただいま、悠理」
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「―――本当に!?ホントにもう良いのか?」 「えぇ。やっと、軌道に乗ったんです。後は僕がいなくても勝手に進んでいくはずですからね」 清四郎は英国に渡ってすぐの頃から、父親の友人の事業を一から勉強しつつ手伝っていた。 そして三年ほど経った頃、あるプロジェクトを企画を起こすところから任され一年間ずっとそれにかかりきっていた。 大学に通いながらのそれは、かなりハードな作業だったはずである。だが悠理は清四郎の疲れた表情を見たことがなかった。むしろ、新しい遊びを覚えたての子供のように、楽しくて仕方ないという風だったのである。 悠理にはそれが、呆れつつも少し不安だった。 もし、このままここに居続けると言い出したらどうしよう、と。 しかしそれが遂に、目処がついたのだという。 「・・・じゃぁ・・・」 帰って来るんだろ? 悠理はその言葉が怖くて継げなかった。否定されるのが怖かったのだ。 だが清四郎は、そんな悠理に微笑むと、抱きしめた。 「すぐにでも帰りたい。だけど、あと二週間待ってくれ。色々引継ぎや手続きも残ってる。全部すぐに片付けてしまうから」 「本当に?本当に二週間?」 「あぁ、二週間。大急ぎで片付けますよ」 「じゃぁあたいもここにいる。一緒に帰る」 ぎゅっとしがみつく悠理を清四郎はそっと引き離した。 「悠理は先に帰っていてくれないか。後から必ず帰りますから」 「なんで・・」 不安げに瞳を揺らす悠理に、清四郎は少し頬を染めるとそれを隠すように抱きしめた。 「お前のいる所に帰りたいんだ。ただいまと言いたい。そして―――」
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「良かった・・・」 清四郎は、人込みでごった返す到着ロビーですぐにその姿を見つけていた。 二週間前に先に帰した愛しい人が、果たしてどんな顔で自分を待っていてくれるのか―――機上でそればかりを思っていた。 泣いている姿だけは見たくなかった。 例えそれが、自分を思ってのことだとしても、これ以上泣かせたくはなかった。 元々悠理は涙脆い。 そして自惚れだと揶揄されるかもしれないが、この四年の間に更に涙脆くなったように思う。 滞在中、空港で別れる時はもちろん、日常のふとした瞬間にもその眼が濡れている時があった。 それは短い、一週間と言う期限が迫るに連れて。 真夜中、腕の中で眠っていると思っていた細い肩が押し殺した嗚咽と共に震えていた事もある。 だが泣く事によって清四郎を苦しめると思ったのかひたすらに涙を隠そうとする悠理に、ただ気付いていない振りをする事しか出来ないのが辛かった。 「あいつ等には敵わないな」 落ち着きなくウロウロとしている悠理を、見守るように懐かしい四人がいた。 この四年半の間、一度も会う事がなかった親友達。 恐らく自分達に気を使っていてくれたのだろうと思うと、心の中で頭を下げた。 今もまた、どこか不安げな表情の残る悠理を一人にしない為、傍についていてくれている。 きっと自分がいない間、こうして悠理を本人にはわからないように支えていてくれたのだろう。 おかげで、今眼に映っている悠理に涙はなかった。
「――――やっぱり泣かせてしまうんですねぇ」 悠理の体を反転させ、その顔を覗きこむと苦笑しながらひとりごちた。 「なんで?なんでだよ・・・まだ・・・」 腕で乱暴に涙を拭う姿に微笑むと、「簡単ですよ」と頭をポンと叩いた。 「早く帰りたかったから、空きの出た便で一番早いのに乗ってきた」 「バカ!それならもっと早く・・・」 ううっ、と声を詰まらせ胸にしがみつく悠理をそっと抱きしめる。 「バカとは・・・。なんだか帰ってきてからろくな事言われませんねぇ」 「だって、だって・・・・」 「それより悠理、僕まだ聞いてないんですけど」 目を真っ赤に腫らした悠理が顔を上げる。 「聞きたい」 打って変わって、真剣な眼差しになった清四郎に、悠理は眼を閉じ一呼吸空けた。 そしてその眼を見つめるとしっかりとした声で言った。 「お帰り、清四郎」 ―――この言葉が聞きたかった。
互いの温もりを分かち合うふたりの耳に、漸く空港内の喧噪が届いてきつつあった。 一番傍で聞こえるのは、小声で何かを押し付けあう声。 「ちょっと、あんた声かけなさいよ」 「ヤダよ、殺されちゃうよ」 「殺され・・・るかもな、確かに・・・」 「その前に馬に蹴られましてよ」 悠理の柔らかな髪から顔を上げた清四郎は、頭を寄せ合い、ひそひそと険しい顔つきで小突きあう友人達に、くすりと笑みを漏らした。 「気を使わせてしまってすいませんね」 その声に、悠理も顔を上げる。 はにかむ清四郎の視線に促され、後ろを振り向くと、すっかり忘れていた四人が、困ったように笑っていた。 「あ、アハハハハ。いやぁねぇ、別に気なんか」 「だよなぁ」 「清四郎たちこそ、私達のことはどうぞお気になさらないで」 「じゃ、じゃぁ僕達もう帰るね」 わざとらしい笑みを浮かべ踵を返そうとする四人を、悠理は真っ赤な顔で慌てて引きとめた。 「な、なんだよ。別にいいよー。お前らだって清四郎に会いたいって言ってたじゃないかー」 清四郎から離れると、可憐と野梨子の腕を捕まえる。 今更ながらに猛烈な照れが襲ってきたらしい。 「ちょっ、悠理。離しなさいよ」 「そうですわ、私達ならまた今度」 だが悠理は二人の腕を自分のそれに絡め、必死に引き留めた。 「オイ、悠理。ホント俺等は良いんだって。また今度ゆっくり話そうぜ。なぁ、清四郎」 「だよ〜。今日ぐらいはふたりでゆっくりすればいいじゃん」 何とか離れようとする可憐と野梨子に、なんとしてでも逃がすまいとする悠理を見て、男達は呆れたように顔を見合わせた。 「何言ってんだよ、イイって〜」 悠理はこれ以上ないと言うぐらい真っ赤になっている。 「悠理!」 後ろから声がかかり、悠理の体がビクリと跳ねた。 ツカツカツカと小気味よい足音が聞こえ、肩に手を置かれる。 「可憐、野梨子。すいませんでしたねぇ。悠理が無理を言って。でもついでに僕の我侭も聞いてくれませんか」 にっこりと笑う清四郎の言わんとする事がわかり、二人も微笑んでやっと腕から力の抜けた悠理の元を離れる。 「また今度話を聞かせていただきますわ」 「楽しみにしてるわよ〜」 それに清四郎も「ええ、もちろん」と笑みで返すと、ちっとも振り向かない悠理の手を握った。
「座りましょうか」 四人の姿が見えなくなると、清四郎は悠理の手を引き近くのベンチに腰掛けた。 悠理も、その横にすとんと腰を降ろす。 「・・・日本なんですねぇ」 ベンチに深く体を預け、ざっと周りを見渡す。 そこはやはり、つい何時間か前までいた場所とは違っていた。 「あぁ、そうだぞ。みんな日本語だろ」 当たり前の事なのだが、悠理にとってはかなり嬉しいことらしい。 皆がいなくなり、またいつもの調子が出てきたのか、何処となく自慢げになっている言い方に、思わず笑ってしまう。 「なんだよお」 「いや、別に。いい加減英語にも慣れたかと思ったんですけどねぇ」 「うっ、そ、そりゃ英語もちょっとは・・・でも、なんていうか、そう言うんじゃなくて・・・」 口ごもる悠理の頭を引き寄せる。 「わかってますよ。ここは日本だ。僕はここに帰ってきた」 「うん」 「・・・ありがとう」 「え?」 「待っていてくれて、ありがとう」 溢れ出す悠理の涙を、自分の胸で受け止めた。
「まさか四年・・半前になるのか。あの時、あの海では、こんな風にお前を抱きしめている事なんて想像も出来なかった」 漸くしゃくり声が収まった悠理の髪に手を入れ梳きながら、清四郎はあの日の海を思い出していた。 偶然街で悠理の姿を見かけたあの時、声をかけずにいられなかった。 自分で決めたこととはいえ、一緒にいられる残された時間は既にカウントダウンを始めていたのだ。 少しでも長く、傍にいたかった。 その願いは叶い、ふたりだけの時間を過ごした。そしてそれが遠い国での心の拠り所となった。 「あたいだって、思わなかったよ。だってあの時、はじめてお前と一緒にいたいと思って、これからもずっとお前といられるんだと思ってた。なのに、突然イギリスに行っちゃうなんて言い出してさ」 また泣きそうになっている悠理を胸に押し付け、力いっぱい抱きしめる。 「その後、向こうの海で言ったこと、覚えてますか」 服を握り閉める悠理の手に力が入った。 「・・・覚えてる、よ」 清四郎の胸が一度、大きく上下した。
「・・・もう離れない。これからはずっと一緒です。結婚しよう」 「―――うん」 胸に温かな水が広がっていく。
ふたりの体温が、一つに溶け合った。
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