美しいひと
急に雲行きが怪しくなってきたと思ったら、バケツをひっくり返したような雨。 天気予報の嘘つき。降水確率は20%だったから、傘なんて持ってない。 僕は大慌てで、商店の軒下に逃げ込んだ。
ああ、ただでさえ塾の時間に遅れそうだったのに、これで完全に遅刻だな。 閉じたシャッターにもたれ、大きく溜息をつく。なんか、何もかもイヤになる。塾へ行くのも、勉強するのも。 だいたい、真面目にやっていたからって、何になるっていうんだろう? 大人になって、なんの役に立つんだろう? …大人になって、何がいいことがある?
僕はすっかり悲観的な気分になって、目の前に落ちる雨だれを睨みつけていた。 だいっ嫌いだ、こっちの都合なんてお構い無しに降る雨も、うっとおしい暗い色をした街も。 どんどん不機嫌の底なし沼に落ちていく僕は、バシャバシャバシャと盛大な水音を立てながら、走ってくる人を見つけて、「ざまぁみろ」と暗い喜びを感じた。 急な雨に迷惑しているのが、僕ひとりじゃないってのはいい。
その人は、シャッターにぶつかりそうな勢いで、僕のいる軒下に駆け込んできた。 ばんっとシャッターに手を突き、くるりと向きを変えて、シャッターにもたれた。 かなり走ってきたのか、はぁはぁと荒く息を吐いている。濡れて重そうな髪から、しずくが滴っている。 淡い色の髪、くっきりと弧を描いた眉、長いまつげに覆われた、猫を思わせるような瞳。 派手なTシャツに細身のパンツをはいた、中性的な女の人。
…雨、だけ? 額にかぶさった前髪からたれ落ちるしずくが、頬を伝っているのは確かだけど。 キッと宙を睨みつけている瞳からも、しずくはこぼれ落ちているように見えた。
……泣いているの? 僕の目の前で、その人の瞳から、次々に大きな涙の玉が溢れ出した。 真っ直ぐに前を向いたまま、顔をくしゃくしゃとゆがめ、ぽろぽろと涙をこぼす。 顔を手で覆いもせず、しゃくりあげる口元すら押さえずに。
大人の女の人が、こんな風に泣くところを、僕ははじめて見た。 そして、お世辞にもキレイとは言えない泣き方をするその人を、何故か僕はとても「美しい」と思った。
泣かないで、美しい人。 その涙のわけも、その涙を止めるすべも、幼い僕にはわからないから。
あんまり見つめているのも悪いかと思って、僕はその人から視線をそらせた。 雨音がより激しくなって、街の風景がけぶる。 目の前の通りを行き交う人の姿は、色とりどりの傘の中に隠れている。 その中の傘のひとつが、僕達に向かって真っ直ぐに迫ってきた。 真っ黒な傘に、真っ黒な髪の男の人。
「悠理っ」
その人は、僕の隣で泣いている女の人を追って来たらしい。 僕達のいる軒下に飛び込んでくると、女の人の肩に手を置き、何事かを話しかけた。 女の人は、頭を横に振りながら、まだ泣き続けていた。 早口で何か男の人に言い返しているけれど、雨の音が邪魔して、何を言っているのかは聞こえない。
男の人が傘を閉じ、長い腕で女の人を抱きしめた。 女の人がぎゅっと目を瞑って、ひとつ大きくしゃくりあげた。 男の人が、女の人の耳元に何か囁いている。薄い唇が動いている。女の人が、何度か小さく頷く。
男の人が少し身を離し、女の人の涙を指で拭った。 まだ溢れ続けている涙を、何度も何度も、指で拭った。 まるで魔法の指であったかのように、男の人が指を動かすたび、こぼれ落ちる涙が少なくなっていく。 男の人の顔をじっと見つめ続けていた女の人が、まだしゃくりあげながらも、ひとつ大きく息を吸って、吐いた。
そして―――ふわりと、笑った。
目は泣き腫れているし、鼻の先も赤くなっていて、頬には涙のあとがついたまま。 お世辞にも綺麗とは言えない状態なのに、まるで日が射したような、とても素敵な笑顔だった。
その笑顔を見て、男の人も笑った。本当に嬉しそうに。 そうして、閉じていた傘を開くと、ぐっと女の人の腰を抱き寄せた。
ふたりがぴったりと身体を寄せ合って去って行くのを、僕はじっと見ていた。 なんだかすごく素敵なものを見たような気がした。テレビや、映画の中の出来事のようで。 いつの間にか雨は小降りになっていて、雲の隙間から明るい空さえ見える。 僕はほっと息を吐き出し、軒下から歩道へと出た。 三十分は遅刻だけど、先生だって、急な雨に雨宿りをしていたと話せばわかってくれるだろう。 僕は腕時計で時間を確かめてから、塾に向かって駆け出した。さっきの雨で出来た水溜りの水を、盛大に跳ね上げながら。
僕もいつか大人になって、恋をするだろう。 恋って奴も、きっとなかなかに厄介で、思い通りにはならないだろうから、些細なことで恋人を泣かせてしまうかもしれない。 けれどそのときは、さっきの男の人のように恋人の涙を止めてやろう。 なんかそれって、格好良くないか?
ほんの少し、大人になることが楽しみになってきた、夏の夕暮れ―――。
end (2007.8.6up)
久々の拍手お礼更新。…しかし、なんだこりゃ?(^_^.) 平井堅の「美しい人」を聴いて、ふっと浮かんだイメージを書いてみました。 目撃者はえらくこまっしゃくれた男の子ですが、幼い清四郎ではありません。中身を知らない第三者から見れば、悠理はすごい美人で、清四郎は無茶苦茶イイ男かな〜なんて。(笑)
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