穏やかな時間
―――凛とした空気の漂う茶室の中で、野梨子の使う茶せんの音だけが静かに響く。
初春のある日、僕は野梨子のお茶の稽古に付き合っていた。 僕の隣に座った家元が、短い言葉で野梨子の小さな動作のひとつを注意する。 普段はおっとりと優しいおばさんだが、稽古の時はとても厳しい。
今日の野梨子は、クリーム地に扇模様の小紋に、臙脂の帯を締めている。 稽古ということで、僕は紬の着物に羽織で来てしまった。 家元同席なら、袴を着けてくるべきだったかと少し後悔したが、後の祭り。
床の間の花器には椿が一輪。 掛け軸は「何か初春らしいものが欲しい」と言ったおばさんに、おじさんがほんの20分ほどで描き上げたものだという。(それでもかなりの値が付くらしい) 室内に漂う、練香の奥床しい香り。大きく息を吸い込むと、気持ちが落ち着く。
「どうぞ」 野梨子が差し出した茶碗を一礼して手に取り、軽く回して口に運ぶ。 茶碗の飲み口を親指と人差し指でつまみながらぬぐい、正面に回して畳の上へ。 一連の所作は、小さな頃から手ほどきを受けているとはいえ、隣で家元が満足気に頷いてくれるとほっとする。
和の心。身の引き締まるような空間。 初春にふさわしい、有意義な時間である。
稽古が一通り終わると僕は茶室を辞して、裏口から家に戻った。 自室のドアを開け部屋に入ると、ぷん、とスナック菓子のバーベキューのような匂いがする。
「あ、お帰り〜、清四郎〜」
悠理が僕のベッドの上に寝転がり、雑誌をめくりながらお菓子を食い散らかしていた。 すらりと伸びた足をばたばたと動かし、僕を見ても起き上がりもしない。
「悠理。ベッドの上でお菓子を食べるのはやめて下さいと、何度言ったらわかるんです?」 溜息をつきながら羽織を脱ぎ、帯をするすると解く。 「あ、えっち。着替える時は、向こう向けよな!」 「それはこちらの台詞でしょう?」 言いながら、脱いだ着物をバサッと悠理の頭の上に落としてやる。 「んん〜〜っ!」 呻きながら、悠理は着物をはねのけると、僕を見上げてニッと笑った。 その悪びれない表情に苦笑しながら洋服に着替えると、僕はベッドに腰を下ろす。 すぐ後ろでパタパタと機嫌が良さそうに振られている悠理の足。 真冬だと言うのに、タマとフクの顔がモノグラムのように散らばるニット地のショートパンツに、薄いストッキングだけだ。
「悠理…寒くないんですか?」 「んーん。だって、来る時はブーツ穿いて来たもん」 足を撫でながら聞くと、きゃははとくすぐったそうに笑いながら悠理が答えた。 彼女の足を押しやりながら、僕も悠理の隣に寝転ぶ。
「なぁ、今日のお茶菓子なんだった?」 「花びら餅でしたよ」 ひじを枕に、僕は横向きになり、空いた方の手で悠理を引き寄せた。 「嘘〜、あたいにも貰って来てくれりゃいいのに。清四郎のケチっ!」 僕の胸元から顔を上げ、悠理が唇を尖らせる。 「食べたかったのなら、悠理も来れば良かったんですよ」 「やー。ここで寝転んでる方がいいもん」 「正月早々、横着者だな。お前は」
悠理のふわふわとあっちこっちに跳ねた髪を梳いていると、あくびがひとつ出た。 長々と体を伸ばし、悠理の体の上に足を乗せる。 「あ、こら」 「いいじゃないですか。ずっと正座をしていたので、足が疲れてしまったんですよ」 言いながら、悠理の身体を抱き寄せ、ふわふわとした髪に顔を埋める。
正座には慣れているので、本当はたいして疲れてはいない。 けれど悠理があまりにも気持ち良さそうなので、僕もなんとなく真似をして、だらしのない格好をしたくなるのだ。
「清四郎、眠いの?」 胸元で、悠理が聞く。 「いや……?」 答えながら見下ろすと、何か不満そうに唇を尖らせたままの悠理の顔。 「…そんなに、花びら餅が食べたかったんですか?じゃあ、また買ってあげますよ」 呆れたという表情を作り、なだめるように言ってやる。 「…そうじゃなーくーてー」 ますます、口を尖らせる悠理。
―――ずっと、待ってたんだぞ。
口には出さないが、そう言いたいのであろうことは、悠理の真っ赤に染まった頬でわかる。 だから僕も何も言わずに、ぎゅっと彼女の身体を抱きしめた。より密着するようにと、足までも絡めて。
「今日はこうして、一日ゴロゴロしていましょうか?」 耳元で囁くと、悠理はこくんと頷いた。
これもまた、有意義な僕の時間。 今年も、よい一年でありますように。
end (2007.1.9up)
あけましておめでとうございます。 新春一発目の更新が、こんな面白くもない話ですみません〜。m(__)m 清四郎は普段きちんとしているけど、悠理といると自堕落にも過ごせてラクなんじゃないかな〜?と、いつも自堕落な私は思ったりもします。(^^)
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Material by 十五夜 さま