「猫」
まっくろな夜だ。
清四郎がシャワーを浴びて寝室に戻るとき、ふと足を止めて見た窓の先には、はっとするほど細い月が、息を殺しているかのように、ひっそりと浮かんでいた。
まるで、鈎針だ。
髪から滴る雫を拭いながら、何となく、そんな感想を抱いた。
寝室のドアを開けると、青く沈んだベッドの上で、裸形が蠢いた。 シーツに手をつき、背中を反らせて、うん、と伸びをしている。 折り曲げた足の上で揺れる腰が、酷く悩ましい。
「遅い。」 腰を上げたまま、シーツに埋めた顔を、こちらに向けてくる。 「シャワーを浴びてきただけですよ。そう長い時間はかかっていないでしょう?」 清四郎が答えると、彼女は、ふああ、と、大きな欠伸をした。 「待ち草臥れて、眠くなっちゃった。」 そして、ころん、と転がって、白い身体をこちらに向けた。 「早く来ないと、寝ちゃうぞ。」 大きな瞳が、ランプの淡い灯火を映して、あかがね色に光る。 肉食獣独特の、妖しい光が、瞳の向こうに透けて見えた。
しなやかな肢体も、柔らかな仕草も、その気まぐれな思考も、すべてが猫のよう。 獲物として喰らわれるのは、彼女のほうか、それとも清四郎か。
清四郎は、バスローブを脱ぎながら、大股でベッドに近づき、両手を広げて待つ彼女の胸元に、するりと入り込んだ。
清四郎の両親は、何かと忙しい身で、よく家を空ける。 姉も、両親がいなくなると、ここぞとばかりに出かけてゆく。 両親が海外へ行けば、姉もその日数分は帰ってこない。
そして、清四郎は、通いの家政婦を断り、ひとりきりの家に、彼女を招き入れるのだ。
清四郎の、可愛い、可愛い、猫――
―― 悠理と、戯れるために。
清四郎の部屋に入ると、悠理はすぐにベッド上の住人となる。 ベッドの上で、身体を丸めてまどろんだり、読書する清四郎をじっと観察したり、猫そのものに、気ままな時間を過ごすのだ。 清四郎は、そんな彼女と付かず離れずの距離を保ちつつ、昼が終わるのを静かに待つ。
猫が本領を発揮するのは、夜が満ちてからだ。 みっつりと夜が満ちると、昼間の動きを制限してきた、邪魔な服はすべて脱ぎ捨てる。陽光の下で見せていた、気だるげな姿態から一変し、敏捷な獣の本性を表す。夜目にも白い肢体を悩ましげにくねらせ、獲物である清四郎を、どうやって喰らおうかと、夜毎思案する。
そして、清四郎は、猫をたっぷりと愛玩し、奔放に振舞う様を、眼を細めて眺めるのだ。
裸身の悠理を胸に抱いても、ことを急きはしない。ふわふわの髪を撫で、その感触を楽しむ。擦り寄る身体の、柔らかなことといったら、他に喩えようもないほどだ。 「あ、やだ。」 臀部の窪みを指で辿ろうとすると、悠理は甘い声を上げて、清四郎の腕から逃げた。だが、逃れようとする仕草も、やはり、甘い。 「今日は、したくなーい!」 そう言いながら、清四郎を試すかのように、身を反転させて、円やかな乳房を腕に押しつけてくる。くすくすと笑いながら、男の反応を確かめるかのように、大きな瞳をさらに大きく見開いて、清四郎の顔を覗きこんでくる。 「このまま、寝よ?」 清四郎も彼女の瞳を覗きこみながら、くすりと笑う。 「裸で僕を待っていたのに、何もしないで寝るんですか?」 臀部に置いたままだった手を滑らせて、どこよりも柔らかい場所へ指を埋めると、そこは既に潤みはじめていた。 「こんなになっているのに?」 からかい混じりに囁きかけたら、いきなり鼻の頭に噛みつかれた。 「・・・何をするんですか。」 「意地悪は嫌い。」 悠理は猫の眼を細めて、清四郎を睨んでから、これまた唐突に、くすくすと笑声を漏らした。 「お前の鼻って、高いから、噛みつきやすい。」 そう言って、また、清四郎をじっと見つめる。 ライトを吸い込んだ瞳が、一瞬だけ、黄金色に輝いて見え、清四郎はごくりと息を呑んだ。 上下する咽喉仏に、悠理が吸いつく。ざらついた舌で、男の欲情を煽る。 それを合図に、清四郎は、彼女の細い肢体を力強く抱きしめた。
荒い呼吸音。摩擦を繰り返す水音。肉が肉を打つ、リズム。
真っ暗な夜の下で、猫が、啼いた。
情交の余韻を楽しむ間もなく、悠理が立ち上がった。 ダストボックスを逸れて落ちたティッシュを爪先で蹴り、するすると歩いてゆく。 素っ裸で部屋を出ていっても、清四郎は驚かない。他に家人がいないときは、いつもこうなのだ。せめてシャツくらい羽織れと注意しても、裸で闊歩する悪癖は、いっこうに直らない。それどころか、眉を顰める清四郎の姿を、楽しんでいるかのようであった。
暫くもしないうちに、悠理が帰ってきた。手には、数本のビールと、クラッカーの箱。そして、クリームチーズの容器を抱えていた。
「お腹、空いた。」 そう言うと、ビールと食料を抱いたまま、ベッドに乗り上がった。 これも、彼女の数多い悪癖のひとつである。そして、こちらのほうも、いくら注意しようが、直る気配はいっこうにない。
悠理は、人の胸を背凭れにして、あっという間にビールを一本飲み干した。 見ていると、欲しくなるのが道理である。清四郎が、ビールの一本に手を伸ばすと、手の甲を軽く叩かれた。 「やーだ、これは、あたいの!」 「元々は、僕の家のでしょう?」 悠理が反論するよりも早く、ビールを奪い取り、電光石火の早さでプルトップを開けて液体を咽喉に流し込んだ。 「ああー!」 膨れっ面の悠理を眺めながら、残ったビールを、さも旨そうに咽喉を鳴らして呑む。すぐに飲み終わって、空になった缶を振って見せると、悠理は膨れっ面のまま、清四郎を睨みつけた。 「今度は自分で取ってこいよ!」 「今の僕には、ビールよりも、人肌のほうが欲しいのですけど、ねえ?」 背中を撫でても、悠理は無反応だ。どうやら、クラッカーにチーズを塗る作業に、没頭しているらしい。 「チーズとクラッカーの滓が混じったキスは、御免被りたい・・・と、言ったところで、今は無駄ですよね。」 悠理は次々とクラッカーを口の中に放り込み、それをビールで咽喉の奥へと押し流していく。今、清四郎がちょっかいを出そうものなら、思い切り引っ掻かれるだろう。気ままな性質ゆえに、少しでも気に障ることがあると、牙を剥いて威嚇する。ゆえに、いくら理不尽であろうとも、悠理が食欲を満たすまでの間は、じっと我慢するしかないのだ。
こん、と音がして、フローリングの床に、空っぽのクラッカー箱が落ちた。その周囲には、ビールの空き缶が何本も転がっている。 清四郎は、悠理の腰あたりから顔を出して、彼女の足元を覗いて見た。ランプの暗い明かりでも、シーツにクラッカーの滓が散らばっているのがよく見え、深々と溜息を吐く。 「どうして悠理は、ベッドの上で何でもしたがるんですかねえ?」 悠理が、指についたチーズを舐めながら振り返る。 「だってぇ、このベッド、居心地いいんだもん。」 清四郎が飽きずに説教しようと口を開けたら、そこに、悠理の細い指が入り込んできた。 「む・・・」 「せっかく良い気分に浸っているんだから、小言なんて聞きたくない。」 チーズの味がする指が、舌の上で蠢く。 清四郎は、彼女の指をしゃぶりながら、弾力のある乳房を、ゆっくりと撫で回した。 「・・・胸にまで、クラッカーの滓がついていますよ。」 白い胸に散った粉を掃うついでに、ピンクの先端を覗かせた乳首を軽く弾くと、悠理が甘い声を上げた。 「やーだー!エッチしたいなら、ベッドを綺麗にして!」 自分で散らかしておいて、他人に片づけろと言う。理不尽なことこの上ないが、惚れているぶん、清四郎のほうが、分が悪い。
多少の名残惜しさを感じつつ、指を吐き出して、シーツの上を掃う。 その様子を、悠理はベッドに伏せた恰好で、じっと眺めている。 清四郎が彼女をちらりと見ると、大きな瞳が、あかがね色に、きらりと光った。
その姿は、まさしく猫そのものだった。
ふと、清四郎の中に、疑問が湧いた。 「もしかして―― お前がこの部屋に来るのは、僕ではなくて、このベッドが目当てですか?」 悠理は組んだ腕の上に顎を乗せて、つまらなさそうに、答えた。
「さあね。」
―― 犬は人につき、猫は家につく。
そんな言葉を、どこかで聞いた気がする。
悠理が猫ならば、彼女は、恋人である清四郎ではなく、このベッドについていることになりはしないか? 取りとめもない思いつきに、薄明かりの中、密かに苦笑する。 それが事実ならば、清四郎は、ベッドに負けたことになるではないか。 しかし、有り得ない、と否定しながらも、どこかで不安を覚えている自分がいた。
清四郎は、自分の考えを打ち消すように、悠理に覆い被さった。 悠理は当然のように手を伸ばし、清四郎に抱きついてくる。 眼を閉じて、安心し切った姿を晒すのは、清四郎に身も心も許しているからと信じたい。
「悠理・・・二人で寝るのは狭いですし、今度、一緒にベッドを買いに行きましょうか?」
「じゃあ、このベッド、ちょうだい。」
清四郎は、全神経を動員させて、聴覚を遮断した。
悩ましい、まっくろな夜。 その下で、悠理を啼かせながら、ぼんやりと考える。
恋は、治療方法のない病だ。 一度かかったら最後、自分ではどうにもできないものである。 だから、勝手気ままな猫に恋をした自分が悪いと思って、諦めるしかない。
そんな清四郎を嘲笑うかのように、三日月が浮かぶ屋根のうえで、猫が、鳴いた。
PLEASE TURN
OVER・・・ ???
「Dark Bee
Collection」
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