「嗚呼、悩み多き若人よ。晩い春に何を想う。」

 By hachiさま

 

 

 

 

季節は、ちょうど晩春と初夏の狭間にあった。

 

悠理は、清四郎が購入したばかりの車の助手席から、煌く海原を見つめていた。

反対に首を捻れば、フロントガラスを見つめる、清四郎の端正な横顔がある。

この位置からだと、男らしい咽喉仏や、高い鼻梁がよく見えて、何となく嬉しい。

 

清四郎が車を買ったときから、助手席は悠理の指定席と決まっていた。

だから、この角度から清四郎を見られるのも、悠理だけに与えられた特権なのである。

 

 

二人の乗った車が目指すのは、平日ならではの、静かな海。

フロントガラスに差し込む陽光は眩しいほどで、夏の来訪が近いことを予感させた。

 

 

 

二人は閑散とした海辺に降り立ち、揃って、うん、と背伸びをした。

平日なのと、浜に岩場が多いためか、波乗り小僧たちの姿はひとつもない。まさしく水平線をふたり占めだ。二人はさっそく波打ち際まで駆け下り、ズボンの裾を捲って靴を脱ぐと、海に入った。

 

汗ばむほどの陽気でも、春の海はまだまだ冷たい。互いに悲鳴を上げながら進み、脹脛まで海に浸かった。

手を繋いだまま、二人並んで、はるか水平線を見つめてみる。

季節外れになりつつある春霞が、海と空との境界線を曖昧にしていて、景色ぜんたいがぼやけている。極彩色にいろどられた夏は、まだ少し遠いようだ。だけど、海の向こうから運ばれてくる風は、気の早い初夏の気配を含んでいた。

 

ざぷん。

膝下で、波が大きくうねった。

「うわ!」

二人は慌てて飛び退ったが、そのときには既に遅く、太腿まで海水に浸かった後だった。

 

捲ったズボンもびしょ濡れになり、清四郎は嫌悪も露わに眉を顰めている。

そんな彼を見て、悠理の中で、ちょっとした悪戯心が湧いた。

 

悠理は、両手で海水を掬い上げると、清四郎めがけて宙に放った。

「わっ!」

不意打ちをくらって、清四郎が短い悲鳴を上げる。悠理は調子に乗って、顔を背けた彼めがけて、二度、三度と、掬った海水を放った。波と水圧に足を取られ、清四郎はいつものように素早く動けないでいる。その丸めた背中に、悠理が放った海水が弾け、きらきらと中空を彩った。

 

しかし、悠理の一方的な攻撃は、すぐに終わった。

清四郎の逆襲がはじまったのだ。

 

身をふたつに折って、悠理に背を向けていた清四郎が、急に振り返った。

「ぎゃあ!!」

避ける間もなく、悠理の胸元に海水が飛んできた。清四郎の掌は大きいから、掬い上げた海水の量も、悠理とは比較にならない。胸元から腹部まで広く濡れてしまい、悠理は逆上して清四郎を睨みつけた。

「このっ!」

悠理は、袖が濡れるのも構わず、海に手を突っ込んだ。そして、勢いをつけて両腕を上げ、清四郎に海水を浴びせる。が、清四郎の逆襲が、簡単に止むはずもなく、次々と悠理に海水が飛んできた。

意地をかけた海水のかけあいは続き、二人はあっという間にびしょ濡れとなった。

 

「もぉ!パンツまで濡れたじゃないか!」

「それは僕も一緒ですよ。」

 

雫を滴らせながら、互いを睨む。

僅かな沈黙の間を、互いの呼吸音と、波音が流れていく。

しかし、静かだったのは、ほんの僅かな間だけ。

 

悠理は波の下で足に力を籠め、清四郎に向かって、思い切りジャンプをした。

いきなりのタックルだったが、さすがは清四郎だけあって、揺らぎもせずに悠理を受け止めた。

が、悠理が清四郎にしがみついたまま、後ろ向きに倒れるのは予想外だったらしい。

「うわ!?」

バランスを崩したところに、足払いまで加えられては堪らない。

二人はそのまま傾いで、折り重なるようにしながら、海中に没した。

 

 

はしゃいで火照った身体が、春の海の中で、冷えていく。

悠理は胸まで海中に没した状態で、ゆっくりと眼を開けた。

視界いっぱいに広がる、スカイブルー。

そして、耳元で聞こえる、清四郎の吐息。

「・・・こら。悪戯が過ぎますよ。」

耳朶を食むように囁かれ、悠理の中に新たな熱が生まれる。

 

清四郎の首に絡ませていた腕を解き、彼の顔を見つめてみた。

穏やかな黒い瞳が、悠理を映し、優しく笑んでいる。

それだけなのに、幸福で胸がいっぱいになった。

 

 

立ち上がって、互いの姿を確かめたら、何だか可笑しくなった。

完璧な濡れ鼠。全身から雫を滴らせて、みすぼらしいこと、この上ない。

ここまで濡れておきながら、大人しく砂浜なんかに上がったら、剣菱悠理の名が廃る。

 

悠理は陽光に煌く海原を眺めて、眼を細めた。

「清四郎!泳ごうぜ!」

そして、返事も聞かずに、海へとダイブ。

「悠理!?」

清四郎の驚く声は、波間で聞いた。

 

全力でクロールをし、しばらく進んでから、足をつく。水面は肩の下にあり、足をついていても、波のうねりに身体を攫われそうだ。

両腕を広げてバランスを取りながら、振り返る。広々とした景色の中に、清四郎の姿はない。海の中にも、砂浜にも、どこにも清四郎がいないのだ。

「・・・せいしろ?」

不安になって名を呼んだが、答えるのは、波音ばかり。

ひとりぼっちに耐え切れず、清四郎の名を叫ぼうとした、まさにその瞬間、眼前の海が盛り上がった。

「ぎゃっ!」

海から飛び出したのは、清四郎の頭だった。

顔を流れる雫を掌で拭い、にっこりと悠理に微笑みかける。

「まったく、とんでもないお嬢さんですね。」

ガラにもなく無邪気な笑顔が可愛くて、吃驚させられたことに対する怒りなど、ちっとも湧いてこない。

「とんでもないのは、お前のほうだろ?」

悠理は憎まれ口を叩きながら、清四郎に抱きついた。

 

清四郎の笑顔も、心地良い体温も、悠理を抱く腕の強さも、波間の煌きも、燦燦と輝く太陽も、青い空も、悠理を包むすべてのものが、幸福に彩られていた。

 

 

 

滝のごとき雫を流しながら砂浜に上がると、清四郎が、やれやれ、と肩を竦めてみせた。

「着替えもありませんし、このままでは車にも乗られませんよ。どうします?」

「タオルは?」

「フェイスタオルが一枚。」

歩いていける距離に衣料品店はない。コンビニエンスストアもない。

「いいじゃん、今日は暑いくらいだし、乾くまで待っていようよ。」

悠理の提案に、清四郎は苦笑した。

「恐ろしく大雑把な提案ですが、仕方ありませんね。」

そう言いながら、視線を巡らせていた彼が、砂浜の端を指差した。

 

指の先に見えるのは、一軒の建物。

洋風の造りと、その大きさから、民家ではないと容易に知れた。眼を凝らせば、レストランらしき看板も見えるではないか。

 

「日当たりのいいテラス席もあるみたいですし、ここで何もせずに甲羅干しをしているより、食事をしながら乾かしたほうが、ずいぶんとマシではありませんか?」

「大賛成!」

悠理は両手を上げて喜んだ。

清四郎は軽くウインクし、ただし味は分かりませんがね、と付け加えてから、おもむろにシャツを脱ぎはじめた。

驚く悠理の肩に、清四郎が脱いだシャツを羽織らせる。ふと見れば、悠理が着ていた白いカットソーが肌に貼りつき、ブラジャーがくっきり透けていた。

「僕以外の誰かに、そんな姿を見せるわけにはいきませんから。」

しれっと言う清四郎に、悠理のほうが恥ずかしくなる。

 

それでも、差し伸べられた手を握ってしまうのは、清四郎の温もりが欲しいから。

ふとしたときに悠理を包む、その優しさが嬉しいから。

 

人で埋め尽くされた雑踏。交通量の多い道。レストラン。数々の危機。

清四郎は、悠理のために、いつも手を差し伸べてくれる。

他の男から女の子扱いされるのは苦手だけど、清四郎だと素直に受け入れられる。

 

恋って本当に不思議だと思いながら、悠理は、海の匂いがするシャツの胸元をぎゅっと握った。

 

 

レストランまでの道程で、滴る雫は、ほとんどなくなった。

 

上半身裸の清四郎の登場に、店主らしき男性は面食らっていたが、物腰も柔らかく事情を話す姿に、警戒を解いてくれたらしい。それどころか、快くテラス席へと案内してくれ、タオルまで貸してくれた。

その御礼というつもりではないが、二人は驚異的な量の料理を注文し、またもや店主を驚かせた。

 

「申し訳ありませんが、あれをお借りしてもいいですか?」

注文の最後に、清四郎がテラスの端に纏めてあるホースを指差した。

「ああ、他にお客さんもいませんし、いいですよ。潮を流さないと、気持ちが悪いですしね。」

ホースの端は蛇口に接続されている。なるほど、あれをシャワー代わりにすれば、海水のべとつきも綺麗に落ちる。

店主が店内に引っ込むのを待って、清四郎と悠理は立ち上がった。

 

 

ホースから迸る真水は、海水よりもずっと冷たかった。

「冷たいー!!」

悲鳴を上げる悠理の頭上から、清四郎が容赦なく水を浴びせる。

「ちゃんと潮を洗い落とさないと、髪の毛がばさばさになりますからね。」

そう説明しながらも、顔には嗜虐的な笑みが浮かんでいて、今ひとつ信用できない。

「お前、あたいを苛めて面白がっているだろ?」

手で眼の上に傘を作り、清四郎を睨むと、別に、と惚けられた。

それでも悠理が睨み続けると、今度は破顔して、飾りのない笑みを見せる。

清四郎がたまに見せる年齢相応な表情に、悠理は弱い。緩みそうになる口元を無理に尖らせ、不機嫌顔を作って、そっぽを向いた。

 

蛇口を閉めると、清四郎は自分のぶんのタオルも悠理の頭に被せた。

「風邪を引かないように、ちゃんと拭いておくのですよ。」

まるで保護者のようにそう言って、悠理を席に戻してから、今度は自分が水を浴びはじめた。

悠理は、プラスチック製の白い椅子に座って、頭を拭きながら、頭から水を浴びる清四郎の姿を、何となしに眺めた。

 

清四郎は、こちらに背を向け、俯き加減で水を浴びている。

ホースから奔出する水が、黒い髪を伝い、逞しい肩や背中に流れ落ちる。

 

その姿を見ているうちに、悠理は彼から眼を外せなくなってしまった。

 

 

男とは思えない、滑らかな肌の上を、透明な水が流れ落ちていく。

黒髪から飛沫が散り、煌く水滴が、午後の陽光に弾ける。

清四郎が僅かに顔を動かす。高い鼻梁から水が滴る様が見え、妙に心が騒ぐ。

昼下がりの斜光が、発達した肩の筋肉に、淡い陰影を刻む。

肩甲骨の窪みに出来た影は、ひときわ濃い。

その影も、流れ落ちる水で揺らめいて見えた。

 

悠理がどきどきしながら見つめているとも知らず、清四郎は、背を伸ばして天を仰いだ。

 

背骨のラインに、流れ落ちる水が集中した。

身体を反らせると、背中を覆う筋肉の隆起が、はっきりと浮かび上がる。

髪を掻き揚げるという、僅かな仕草でも、引き締まった腕の筋肉が存在を主張する。

日々怠らずに重ねた鍛錬の賜物とはいえ、眼のやり場に困るほど綺麗だ。

 

しかも、それだけでも倒錯的な魅力に彩られているのに、たっぷりと水を含んでずれたズボンから、腰骨の上部がちらりと覗いて、妙な色香を醸し出しているではないか。

 

悠理の心臓が、さらにバクバクと早鐘を打ちはじめる。

 

見事なほどに、完璧な肉体。

あえて欠点を見つけようとしたら―― 男のくせに、セクシーすぎるということだけだろう。

そして、そんな彼の背中には、悠理のつけた爪痕が、うっすら残っている。

 

悠理は、あの背中に―― あの身体に抱きついて、声を上げているのだ。

 

 

心臓が、限界まで高鳴った。

 

「・・・・・!!!」

恥ずかしさに耐え切れず、タオルに顔を埋める。

叫び声を上げなかっただけ、自分でも偉いと感心した。

そこに店主が料理を運んできて、水浴びを終えた清四郎も、席へと戻ってきた。

「なかなか美味しそうですね。ん?悠理、どうしました?」

真っ赤になっている悠理を心配して、清四郎が顔を覗きこんできた。

 

至近距離まで迫った清四郎を見て、悠理の顔はさらに赤くなった。

濡れて乱れた黒髪が額に落ちて、そこから滴り落ちる雫が、端正な顔に光を与えている。

改めて見ると、滅茶苦茶に、いい男ではないか。

 

「な、なんでもないっ!」

慌てて仰け反り、清四郎と距離を取ったが、手遅れの感は否めない。

心臓はばくばく煩いほどに鳴っているし、やけに顔が熱い。

「本当に大丈夫ですか?顔が赤いですし、熱でも出たのでは・・・?」

「本当に何でもないったら!!」

額に伸びる手を避けて、顔を逸らす。

が、間近に迫った厚い胸や、硬く引き締まった腕が、一瞬のうちに眼の奥に焼きついてしまった。

 

駄目だ。このままでは、顔もまともに見られない。

 

悠理は真っ赤な顔をしたまま、料理に齧りついた。

恥ずかしさを紛らわすためには、とにかく食べて食べて食べまくるしかない

「それだけ食欲があれば、大丈夫ですね。」

呆れたような口調で清四郎が言う。でも、悠理は顔も上げずに料理を口に掻きこんだ。

喋ったら、また恥ずかしさが噴出しそうな気がして。

 

 

 

悠理の気持ちなど気づいてもいないのか、はたまたすべてお見通しなのか、どちらかは不明だけれど、清四郎が、パスタをフォークに巻き取りながら、そっと囁きかけてきた。

 

「・・・このあとは、どこかで一緒に熱いシャワーを浴びましょうね。」

 

「ぶーっ!!」

清四郎のとんでもない囁きに、悠理は頬張っていた温野菜のサラダを吹き出した。

 

「へへへへへ変態っ!」

「おや、今日は元々そうする予定でしょう?」

「そんなこと聞いてないぞ!誰が決めたんだよ!?」

「僕です。」

「何だよ、それ!?」

「嫌ですか?」

 

「・・・嫌とは、言ってないじゃん・・・」

 

 

 

 

嗚呼、悩み多き、若人よ。

 

晩い春に、何を想う。

 

 

 

 

 

 

 

 

・・・こんな終わり方で許されるのだろうか?

 

 

 

 許すっ! (麗)

 

 (2006.5.12up) 

 

 

 

Bee’s room

Material By canary さま