「花嫁人形」
―― きんらんどんすの 帯しめながら 花嫁御寮は なぜ泣くのだろ
鏡に映った自分の姿を見て、野梨子はふと古い童謡を思い出した。 野梨子が締めているのは、金襴緞子の帯ではないというのに。
ああ、やはり私は泣きたいのだろう。 今さらながら、それに気づいたことが可笑しくて、野梨子はくすりと笑った。
鏡の中の自分は、色内掛ではなく、白無垢を着て、純白の角隠しで頭を覆っている。
野梨子は、今日、嫁ぐ。 白鹿を守り立てるであろう、高弟のひとりのもとへ。 心の中に、初恋を封じたまま。
初恋というには、淡すぎた。 初恋というには、静かすぎた。 でも―― その想いは、誰よりも激しく、何よりも深かった。
心の中で、相手の名を呟く。 嫁ぐ日に、良人となるひととは違う名を呼ぶわけにはいかないから。
―― 清四郎。
生まれたときから、ずっと一緒だった、大切な幼馴染。 彼は、もっとも野梨子を理解してくれていた。 なのに、最後まで野梨子の想いに気づかなかった。 気づくはずもない。 何しろ野梨子は、清四郎と彼の恋人の仲を、影になり、日向になりながら、ずっと見守ってきたのだから。 そう―― 清四郎と、悠理を、ずっとずっと、見守っていたのだから。
―― 文金島田に 髪結いながら 花嫁御寮は なぜ泣くのだろ
清四郎も、悠理も、どちらも意地っ張りだったから、想い合っているのに、それをなかなか互いに伝えようとしなかった。それは、見ているほうが苛々するほどだった。だから、野梨子が背中を押した。
このまま想いを伝えなければ、後悔しますわよ。 後々まで未練を残すのは、嫌でしょう。
二人は、野梨子が後押ししたお陰で、ようやく素直になって、互いに想いを伝え合った。 野梨子は、嬉しげに頬を染めて交際の報告をする二人に、おめでとう、と祝福の言葉を贈った。心の中で、自身を嘲りながら。
二人を応援するために告げた言葉は、そのまま自分に向けた言葉だった。 告げない想いは、後悔を、未練を、残す。 それ以来、野梨子の胸は、後悔と未練でしくしくと痛んでいる。 清四郎ではない男のもとへ嫁ぐ、今日この日まで。
―― あねさんごっこの 花嫁人形は 赤い鹿の子の 振袖着てる
付き合いだしてからも、二人には手を焼いた。
些細なことで喧嘩をして、その度に別れると騒ぐ。本当は相手のことが好きで堪らないくせ、もういい、などと弱音を吐く。だから、野梨子は、二人が仲違いする度に、幼い子を諭すように、優しく説いた。
本当は好きなのでしょう? 好きな相手に強情を張っていると、自分が惨めになりますよ。
野梨子は微笑みを湛えながら、自分のための言葉を、大事な友人に、そして、初恋の相手に告げた。 二人が結婚を誓い合った頃には、恋に破れた痛みにも、既に慣れっこになっていた。
二人は、正反対でありながら、否、正反対であるからこそ、互いに強く惹き合っていた。 一番近い場所で二人を見守っていた野梨子には、それが分かっていた。 だから、諦める、というより、二人がともにあるのが当然だと感じていた。 当然だからこそ―― 野梨子は、自分の想いを封じ込めたのだ。
野梨子の初恋は、告げないままに終わった。 長い、本当に長い間、秘めてきた恋心は、野梨子の中で、完結したのだ。 でも―― 後悔は、していない。 野梨子は、本心から、清四郎と悠理の幸福を願ってきた。 大事な、大事な、かけがえのない、幼馴染たちだからこそ、幸福になって欲しかった。
犠牲になったなどとは、思っていない。 黙っていることで昇華する愛のかたちもあると信じているから。 野梨子は、二人の恋に尽くした。 それが、清四郎に対する、野梨子の愛の証明だ。
―― 泣けば鹿の子の たもとがきれる 涙で鹿の子の 赤い紅にじむ
愛していますわ、清四郎。
野梨子は、心の中で、はじめて彼に愛を告げた。 最初で、最後の、愛の告白。 もう―― 二度と、彼に愛を告げることはない。
鏡の中の自分を見つめる。 今日から野梨子は、新しい人生へと踏み出す。 今までの人生に決別を告げる必要はない。 でも、自分のために、区切りをつけたかった。
「野梨子・・・花嫁衣裳、とても似合っていますわ。」
野梨子は鏡の中の自分に微笑みかけた。
最初から、終わっていた、初恋。 でも、その初恋も、今の野梨子を構成する、大事な要素だ。
だから、泣かない。
だから、負けない。
野梨子は、野梨子であり続ける。
そのためにも、涙を零してはならないのだ。
愛する二人のためにも、花嫁衣裳を、涙で濡らしてはならないのだ。
野梨子は凛と顔を上げ、良人となるべき男のもとへ歩き出した。
―― 泣くに泣かれぬ 花嫁人形は 赤い鹿の子の 千代紙衣装
hachiさんからサイトオープンのお祝いにいただきました…!(^^)! ……(落涙)。私は、清四郎の恋の相手でなければ、野梨子は大好きなんですよ〜。 あの、強くて凛とした所に惹かれます。でも、ゴメンね。清四郎はやっぱり悠理のものだから。 きっと野梨子なら、涙を流さずにまっすぐに前を向いて生きていく事が出来るのでしょう。 hachiさん、綺麗なお話をありがとう〜。
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