『いちめんのなのはな』
それは、地方で行われた茶会の帰路、閑散とした列車の中でのことだった。
突然、視界が開け、車窓から景色を眺めていた野梨子の眼に、河川敷を覆いつくす、いちめんの菜の花が飛び込んできた。
二両編成の普通列車が、レールを軋ませながら鉄橋を渡る。震動を伴う反響が、足下から伝わってきた。ゆったりと流れる景色とは対比的に、鉄の橋梁が車窓を過ぎるスピードは速く、焦点を間近に定めると、何だか幻覚を見ているような気にさせる。 だが、野梨子は違った。 眼前に現れては消える鉄骨の目眩ましに惑わされることなく、河川敷を黄一色に染める菜の花をじっと見つめていた。
菜の花は、幼い日の記憶を呼び覚ます。
そして、一生に一度の恋が破れた、あの日の記憶を。
鉄橋を渡り終えても、野梨子は車窓を見つめつづけていた。いちめんの菜の花に埋め尽くされた川原は、瓦の波に遮られてしまい、もう見えない。
だが、野梨子の心を覆う、いちめんの菜の花は、鮮明な色を失わなかった。
菜の花の川原を過ぎてすぐ、くぐもったアナウンスが車内に流れた。各駅停車だから、前の駅を出発して、いくらもしないうちに次の駅へと到着するのだ。
野梨子は、視線を正面に戻して、向かいに座る、夫を見た。 「ごめんなさい。私、次の駅で途中下車をしたいのですけど、よろしいでしょうか?」 夫は何も聞かず、いいですよ、と言って、穏やかに微笑んだ。
野梨子たちが乗車しているのは、先にある本線へ乗り継ぐための、地方線だ。単線の軌道の左右は、牧歌的な風景が広がっている。 そんなところだから、途中下車すれば、なかなか次の列車はこないのは、分かりきったことだった。それに、ここで降りれば、乗車する予定だった特急列車に間に合わないかもしれない。なのに、夫は嫌な顔ひとつせず、野梨子の我侭に付き合ってくれようとしている。気遣いしてばかりの茶会を終えて、酷く疲れているだろうに。
夫はゆったりした所作で立ち上がると、網棚に置いていた荷物へ手を伸ばした。そして、行きましょうか、と野梨子に声をかけてから、二人ぶんの荷物を持って、間もなく開くドアへ向かって歩き出した。
自分の我侭に夫をつき合わせてしまうのは心苦しかったが、それでも野梨子は、いちめんの菜の花をゆっくりと眺めてみたかった。 本来ならば、他の男性との思い出に、夫をつき合わせるべきではないと分かっていながら、どうしてもそうしたかったのだ。
野梨子は座席から立ち上がると、広い背中に向かって、深々と頭を下げた。
無人駅に降り立ってから、塗料の剥げかかった時刻表を確かめてみると、案の定、列車は一時間に一本しか通っていなかった。 道理で、茶会の責任者が、野梨子たちの出立を急がせたわけだ。次期家元夫妻を、一時間に一本の列車に乗り遅れさせたら、おおごとである。
自分の軽率な行為が、改めて恥ずかしくなり、夫に謝罪すると、彼は穏やかな微笑を湛えたまま、いいですよ、と答えた。 「先ほどの菜の花畑に行きたいのでしょう?ここからなら、歩いて十分もかからないはずですよ。さあ、行きましょうか。」 夫は、普段と同じ口調でそう言うと、二人ぶんの荷物を抱えて、歩き出した。
野梨子が彼と結婚して、半年になる。
白鹿流の高弟である夫とは、一回りも歳が違う。そのせいもあってか、結婚が決まった当初は、誰もが、野梨子は家業と結婚するのだと噂した。そして、その噂は、今や定説となってしまい、世間にまかり通っている。 夫は、口さがない人々の噂に酷く傷ついているはずだ。そのうえ、婿養子という立場が、後継者としての重責が、彼をさらに苦しめている。 なのに、夫はいつも穏やかで、いかなるときも微笑を絶やさない。かといって、卑屈なわけでもない。悠然としながらも、些細なところまで気配りが届く、素晴らしい人物だ。 だから、あんな噂が流れるのだと、野梨子は思う。 白鹿流の将来を担うのに、彼ほど相応しいひとはいないのだから。
車同士が擦れ違えないような狭い道を、夫婦並んで、のんびりと歩く。 よく考えたら、夫とこうやって歩くのは、はじめてだった。 野梨子の心中を察したわけでもなかろうに、夫がおもむろに口を開いた。 「誰の目も気にしないで歩くのも、たまにはいいですね。」 光線の加減か。彼の笑顔が少し照れ臭そうに見えた。 野梨子は、そうですわね、とだけ答えて、彼と同じように、微笑んだ。
古惚けた住宅街を抜けて、河川敷へと繋がる石段を登ると、眼前に、いちめんの菜の花が広がった。 川面を渡る風が、菜の花特有の青い香りや、湿った土の匂いを、土手の上まで運んでくる。 野梨子は深呼吸をして、早春の気配を胸いっぱいに吸い込んだ。
遠い昔、幼馴染とともに、同じことをした。 小さな手をしっかりと繋ぎ、土手の上に並んで、深呼吸をした。 幼い頃は、菜の花の匂いが好きになれなくて、二人いっしょに顔を顰めたけれど。
そこで、古い記憶が急に甦ってきて、思わず苦笑を漏らしてしまった。 いきなり笑い出した野梨子を見て、夫が、どうしたのか、と声をかける。 野梨子は、袂で口元を押さえ、笑声を引っ込めてから、彼に理由を説明した。
「小さい頃、お隣の小母さまに連れられて、こんな場所に来たことがありますの。和子さんや清四郎と一緒に、誰が一番多く菜の花を摘めるか競争をしたら、小母さまに花が可哀想だと怒られて・・・皆で、摘んだ菜の花に一本ずつ頭を下げて、謝ったんですのよ。最後には、頭を下げすぎて眩暈がして。くらくらする頭で、二度と花摘みの競争はすまいと心に誓いましたの。可笑しいでしょう?」
野梨子の両親は多忙で、家族揃っての旅行など、滅多にできるものではなかった。たまに家族で出かけても、それは、何かしらの行事と関わっていた。 そんな野梨子を不憫に思ったのか、菊正宗の小母は、自分の子供と出かける際は、必ず野梨子を誘ってくれた。だから、幼い日の楽しい思い出には、必ず清四郎や和子の姿があった。
「あの日は、菜の花を見に行ったのではなく、川に面した高台にある城址公園で、桜の花見をするはずでしたの。だけど、私たち子供は、手の届かない桜よりも、摘める高さにある菜の花のほうが魅力的に思えたのでしょうね。桜なんてそっちのけで、菜の花畑に飛び込んだ記憶がありますわ。」
瞬間、野梨子の目線は、幼い日に戻った。
胸の高さまである、菜の花の迷路。どこまでも続く、圧倒的な黄色の波。 清四郎と手を繋いで、黄色と若草色に埋め尽くされた迷路を、どきどきしながら潜り抜けたことを、今でもはっきりと覚えている。
視界を菜の花に塞がれ、不安がる野梨子を励ました、清四郎の手の温もり。
紅葉のように小さな手が、やけに逞しく思えた、遠い日――
そこで、記憶が切り替わった。
脳裏に浮かんだのは、幼い清四郎ではなく、誰もが羨望の眼差しを向ける、精悍な青年となった清四郎だった。
それは、数年前の、記憶。
いちめんの菜の花の中、清四郎は、悠理と対峙していた。
大粒の涙を零しながら、清四郎に激しい言葉を投げつける悠理。 珍しく語気を荒げて、言い返す清四郎。
夕暮れの空。 薄暮に包まれた菜の花畑。 風が渡り、菜の花がいっせいに揺れる。
清四郎が苦しげに叫び、悠理がはっとして顔を上げる。 清四郎の声は、野梨子の耳にも届いたはずなのに、聞こえなかった。 否、聞こえていても、意味を成さなかったのだ。 悠理が震える声で何かを尋ねる。清四郎が大きく頷く。 突然、悠理が顔を覆い、激しく嗚咽しはじめた。 そんな悠理を、清四郎がしっかりと胸に抱き、ふわふわの髪に顔を埋めた。
野梨子の傍らで、友人たちが揃って苦笑しながら、意地っ張り同士の恋の成就に、拍手する。 だから―― 野梨子も一緒に、幼馴染たちへ惜しみのない拍手を送った。 胸の奥で悲鳴を上げる恋情が表に飛び出さぬよう、必死に微笑みながら。
あの日、野梨子は、黄色く霞んだ景色を見つめながら、恋破れたことを感じていた。
首筋を撫でる、早春の冷ややかな風に、野梨子は我に返った。 眼前には、穏やかに広がる、いちめんの菜の花。 天高くから響く、雲雀の高らかな歌声。 そして、隣には、いつもと変わらぬ夫の微笑。
野梨子も夫に微笑みかけ、そして、ふたたび視線をいちめんの菜の花に向けた。
「・・・清四郎が悠理に告白をしたのも、いちめんに咲き誇る菜の花の中でしたの。あの二人は、どちらも筋金入りの意地っ張りで、好き合っているくせに、なかなか想いを伝えようとしないから、傍にいる私たちは、ずいぶんとやきもきさせられましたのよ。」
あの頃、清四郎は最初から自分の恋を諦めていた。 悠理も、自分に近づく男全員が財産目当てだと信じ、頑なに心を閉ざしていた。 だから、野梨子は、幾度も二人に説いた。 一生に一度の恋だと思えるなら、手に入れる努力もせずに失うのは、自分自身にも失礼だ。幾度も共に生死を賭けてきたのだから、好きと告げて終わるような友情ではないと。
―― 恐れるな、怖気づくな、何があっても大丈夫。 ―― どんなときも、私が見守っているから。
そう言って、野梨子はふたりの恋の成就に力を尽くした。
「・・・私、あの二人には、誰よりも幸せになって欲しいと思っていますの。」
清四郎が幸福であることが、野梨子の幸福だから。 清四郎の心が満たされていれば、野梨子の心も満たされるから。 清四郎が微笑んでいれば、野梨子も微笑めるから。
「野梨子さんは、本当に清四郎くんと悠理さんが好きなのですね。」 水面を渡る風よりも静かに、夫が呟いた。 野梨子は夫を見て、微笑んだ。 「・・・ええ。」 風が吹き、菜の花が揺れる。 「でも―― 最近は、少し違った考えを持っていますのよ。」 後れ毛が風に靡き、項を擽る。 眼前には、穏やかな、どこまでも穏やかな、いちめんの菜の花。
「あの二人より、私たちのほうが、もっともっと幸せになりたいと・・・そう思っていますの。」
野梨子の夫は、言葉の代わりに、穏やかに微笑んだ。 夫の背後に広がる青い空が、春風駘蕩とした彼に、よく似合っていた。
満開の桜のように、ひとの心を惹きつけない。 大輪の花のように、派手な魅力はない。 だけど、野梨子の夫は、いちめんに広がる菜の花のように、静かで、穏やかなひとだ。
夫がそっと野梨子の手を握る。 「少し、歩きましょうか。」 野梨子はその手をしっかりと握り返して、頷いた。 「はい。」
夫に手を引かれ、菜の花を眺めながら、ゆっくりと歩く。 穏やかな昼下がりの空と、満々と水を湛えて流れる川。 天空には、夜から置いてけぼりにされた三日月が儚げに浮かび、眼下には、どこまでも続く菜の花の群れが続いている。 そして、野梨子の傍らには、この景色のように穏やかな、夫の姿がある。
こうして、いちめんの菜の花の記憶が、またひとつ、積み重なっていく。
広い背中を見つめながら、野梨子は思った。 これからも、夫との記憶を積み重ねていけば、いつかは清四郎との記憶よりも、数を多くするだろう。 そして、いつの日か―― 野梨子の記憶は、夫で満たされる。
きっと、胸を締めつける切なさを、忘れることはできない。 でも、それは決して不幸なことではない。 記憶と同様に、新たな想いで、胸を満たしていけば良いだけの話だから。
これからも、野梨子は、いちめんの菜の花に抱かれて、心穏やかな人生を送るだろう。 老いても変わらぬ、穏やかな微笑に見守られながら。
ずっと―― このひとと共に、同じ道を、歩いていく。
いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな かすかなるむぎぶえ いちめんのなのはな
いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな ひばりのおしやべり いちめんのなのはな
いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな やめるはひるのつき いちめんのなのはな
( 山村暮鳥 風景−純銀もざいく− )
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