「バッカスの恋」




 清四郎とて、はじめからその気があったわけではない。
 伏線は、四ヶ月前から引かれていたのだ。
 それも、清四郎がまったく関知していない場所―― 否、そうである筈がないと、たかを括っていたところで、静かに、しかし確実に、はじまっていた。



 四ヶ月前のことである。
 清四郎は、それまでの半年ほど、多忙に多忙を重ね、諸事に忙殺されていた。その日、ようやく忙しさから解放され、久方ぶりに仲間たちとともに夜の街へと繰り出していたのだ。


 楽しい杯を重ね、二軒、三軒と店を渡り歩いているうちに、野梨子が潰れ、続いて可憐が潰れ、彼女たちを送るために魅録が消え、やがては美童までもが数多い恋人のひとりに呼び出されてしまい、最後には、あと一杯で虎に変化するであろう悠理と、清四郎が残された。



 「んじゃ、さよならぁ〜」
 悠理が、去り行く美童に向かってひらひらと掌を振りながら、誰のものとも知れぬグラスを煽ろうとした。清四郎は慌ててグラスを奪い、悠理から一番遠い場所へとそれを置いた。
 「悠理!飲み過ぎですよ。僕たちもそろそろ帰りましょう。」
 「やだーー!もっと飲むーーー!!」
 悠理は喚き散らしながら、長椅子に寝転がった。どうやら梃子でも動かないつもりらしい。
 清四郎は、すっかり酔っ払った悠理を見下ろして、深々と溜息を吐いた。


 久々に気兼ねなく酒が呑めると思ったのに、酔っ払いの世話を押しつけられるとは、ついていない。こんなことなら、先に帰れば良かったと思いながら、手持ち無沙汰を解消するため、テーブルを埋め尽くすグラスやツマミの皿を、適当に重ねていた。


 「・・・せーしろー・・・」
 「はい?」
 悠理に呼ばれ、顔をソファに向けた瞬間、彼女が電光石火の勢いで起き上がった。


 ちゅ。


 くちびるに当たった柔らかな物体が何かを理解する前に、清四郎の鼻先で、悠理がへらりと笑った。



 「せーしろー、エッチしよ。」
 

 恐らく、五秒はフリーズしていただろう。
 清四郎が我に返るより早く、悠理が、ふらり、と、しなだれかかってきた。
 「あたい、せーしろーとエッチしたーい。」
 「な、何を言ってるんです??」
 焦る清四郎の首に、華奢な腕が絡みつく。
 「せいしろ・・・あたいとは、エッチしたくないの・・・?」
 ふ、と悠理が顔を上げ、清四郎の瞳を覗きこんだ。


 息を呑むほどに、真剣で、真っ直ぐな瞳が、清四郎を射た。
 瞬間、胸が、どくん、と鳴った。


 理性は、誘惑を拒めと言っている。
 だが、本能のほうは、既にざわめきはじめていた。


 悠理が、ゆっくりと清四郎の肩に顔を埋める。
 鼻腔を擽るシャンプーの匂い。服を挟んでいても分かる、円やかな胸の膨らみ。
 清四郎に縋りついているのは、紛れもなく、女であった。


 心拍数が徐々に上がっていくのを感じながら、理性を総動員させて、抱きしめたい衝動をぐっと堪える。
 「悠理、冗談もほどほどに・・・」
 すべてを言い終わる前に、彼女の異変に気づいた。
 「・・・悠理?」


 悠理は、清四郎の肩に凭れたまま、熟睡していた。




 その後も、清四郎と飲みに行くたび、悠理は泥酔して、開けっぴろげに誘ってきた。
 が、誰でも誘っているわけでもないらしい。魅録と二人で呑みに行くときは、決して意識を失うまで呑まないというし、美童の前では、いくら呑もうが平然としているとい
う。


 つまり、清四郎と呑みに行くときだけ、酩酊するらしいのだ。
 そして、当然のことながら、翌日になると、清四郎に迫ったことなど、綺麗サッパリ忘れている。


 いつだったか、可憐が「あんた、昨夜、清四郎に何をしたか覚えてる?」と尋ねると、「もしかして、殴った?」と怯え気味の答が返ってきた。

 以後、その件に関しては、誰も触れようとしない。



 「せーしろー!聞いてる!?」
 「ええ、聞いてますよ。」
 清四郎は、諦め半分で、膝の上の悠理に答えた。
 「聞こえているならさーーエッチしよーよ、ねえ?」
 「はいはい、今度ね。」
 軽く流したつもりが、逆効果だったらしく、悠理がぎゅうと抱きついてきた。
 「今度って、いつー?今日?明日?それとも明後日?」
 この光景も、恥ずかしかったのは最初だけで、自分も、仲間も、すっかり慣れてしまった。最近は、飲み会の風景として、すっかり定着してしまった観がある。お陰で、悠理が清四郎の膝に乗っかっていても、誰も気にしていない。


 「悠理の酔いが醒めたら、いつでも結構ですよ。」
 ジンのロックでくちびるを湿らせながら、軽く答える。すると、悠理は、清四郎の胸に、のの字を描きながら、へへ、とだらしなく笑った。
 「あたい、酔ってらんか、いらいもーん。」
 呂律まで怪しくなってきている。


 仲間たちはこちらを見ようともせず、和やかに談笑している。
 まったく、どうして自分だけがこんな目に遭うのかと、恨めしげな気分に陥りながらも、酔っ払った悠理の髪を梳く。そうすると、悠理が落ち着くと知ったのも、この四ヶ月の間である。


 「・・・はじめての相手はねー、せいしろーがいいの。」
 清四郎の首にぶら下がったまま、悠理が呟いた。
 「せーしろーじゃなきゃ、イヤ・・・」
 その、甘い声が、耳朶から脳へと侵入し、下半身と連結した本能を刺激する。


 駄目だ。悠理は酩酊している。
 本気にするな。これは酒の席での、度のきつい冗談だ。
 溢れ出ようとする欲望を、理性で押さえつけろ。


 そのとき、悠理の手が伸びてきて、清四郎の手をそっと掴んだ。
 そのまま持ち上げられ、ゆっくりと導かれる。
 着地点は、マシュマロのように柔らかい場所だった。


 「・・・こんなぺったんこの胸じゃ、抱く気も起きない・・・?」
 潤んだ瞳が、清四郎を捕らえる。
 泣き出しそうに歪んだ眉。不安げな口元。
 その表情があまりにも切なくて、清四郎は、息を呑んだ。


 「ゆ、ゆう・・・」

 咽喉の奥から搾り出した声も、途中で消えた。
 清四郎の手を導いた手に、力が篭もる。
 掌を、円やかな胸に押しつけられ、さらに上下に動かされる。


 服と、ブラジャーのパットが間にあるのだから、その下にある小さな隆起の存在など感じるはずはないのに、掌の中心に、それを感じた気がした。


 「帰りましょう。」

 清四郎は、悠理を引き剥がして、立ち上がった。
 


 仲間たちは、帰るなと引き止めたが、これ以上、この場所に留まるのは無理だった。
 悠理と自分の荷物を左手に抱え、右手には悠理を抱え、店を出る。
 

 「やらー!まだ呑むーー!」
 清四郎に抱えられた状態で喚く悠理に、雑踏の視線が突き刺さる。
 それを振り切るように、清四郎は大股で歩いた。


 客待ちのタクシーは、列を成している。
 その中のどれでもいい。とにかく悠理を放り込もう。そうは思ったが、ガードレールに切れ目はなく、しかも、それに沿ってバイクと自転車がずらりと並んでいるため、仕方なく、横断歩道に向かった。
 


 横断歩道まであと少し、というところで、悠理が暴れ出し、清四郎の腕を振り解いた。
 「帰らないもん!清四郎とホテルに行くーー!!」
 ホテルホテルと喚く悠理を、行き交う人々が物珍しげに眺めながら、過ぎてゆく。中には、清四郎に卑猥な視線を投げる者までいる。

 一瞬、置き去り、という言葉が脳裏を過ぎったが、それを実行したら、悠理は良からぬ男たちに連れ去れるかもしれない。
 清四郎は、深々と息を吐き、膝をついて、悠理の手を取ろうとした。
 

 「やら!!」
 清四郎の手を、悠理は思い切り振り払った。
 「清四郎、あたいを帰そうとしてるらろ!?やらやら!帰らない!清四郎とエッチするまれ、絶対に帰らないからな!」
 今度は、エッチエッチと連呼しはじめ、堪らずに彼女の口を手で塞いだ。
 「んん〜!!むぐむぐ、がう〜!!」
 暴れる悠理を後ろから羽交い絞めにして、歩道の端まで引き摺っていった。


 「まったく、どうして僕とエッチしたがるんですかねえ?」
 悠理を羽交い絞めにしたまま、ガードレールに凭れて、溜息を吐く。
 すると、腕の中の悠理が、急に抵抗を止めた。
 「うう・・・」
 悠理の口を塞いでいた手に、ぽたり、と雫が滴った。
 驚いて彼女の顔を覗くと、瞳から大粒の涙を零している。
 

 「どうしたんです?お腹でも痛いのですか?」
 手を離し、口を解放しても、悠理は何も言わない。
 ただ、時折、しゃくり上げるだけだ。
 

 清四郎は、成すすべもなく、泣きじゃくる彼女を抱きしめていた。



 「・・・好きな人とエッチしたいって思ったら、駄目なのかよ?」

 不意に、悠理が呟いた。

 「はじめてのエッチは、好きな人と・・・清四郎と、したいって・・・そう思うのは、いけないことかよ?」



 頭を、ハンマーで殴られた気がした。
 清四郎は、無意識のうちに、彼女を抱く腕に力を籠めていた。


 愛しい―― 仲間に抱くには不似合いな感情が、胸を締めつける。


 思えば四ヶ月前、はじめて悠理に迫られたときから、この感情は、胸の奥に住み着いていたのだ。
 ただ、自分が気づかなかった、否、気づかないようにしていただけ。
 

 「悠理・・・本当に、僕でいいのですね?」
 悠理の髪を梳きながら、耳元で囁く。
 「はじめての相手は、僕でも、構わないのですね?」
 「お前じゃなきゃ、駄目だもん・・・」
 それは、泥酔しているとは思えぬ、はっきりとした答だった。
 そして、そのひと言に、清四郎の理性は跡形もなく消え去った。


 こうして―― 清四郎は、酔っ払った悠理に、完全に篭絡されてしまったのだった。
 




 「ん・・・」

 悠理は、カーテンの隙間から差す朝日の眩しさに目覚めた。
 広いベッドの中で、ぼんやりと思考を巡らす。
 何だか、凄い夢を見た気がする。
 まさか、清四郎とエッチをする夢を見るなんて。
 あの情緒欠落男が、悠理に向かって、綺麗だとか、可愛いとか、賛辞の言葉を並べ立てるはずもないのに、どうしてあんな夢を見てしまったのだろう?
 しかも、行為の後の、ピロートークまで、しっかりと覚えている。
 細部まで詳しく覚えているのは、やはり、内容が内容だったせいに違いない。


 「・・・変な夢だったなあ・・・」
 「どんな夢を見たんです?」
 返ってくるはずのない返事、それも、聞き覚えのある声に、悠理は驚いて身を起こした。


 そこにいたのは、風呂上りらしく、腰にタオルを巻いただけの、清四郎。
 
 そして、見下ろしてみれば、何も身につけていない、自分の姿。


 「ぎゃあああっ!」

 悠理は悲鳴を上げて、裸の胸を手で隠した。
 「なななな何でお前がここにいるんだよ!?」
 「何でって、一緒に泊まったからに決まってるでしょう。悠理もシャワーを浴びますよね?あと30分ほどで朝食が届きますから、急いだほうがいいですよ。」

 
 清四郎がベッドに乗り上げてきて、悠理の額に、ちゅ、とキスを落とした。
 あまりの衝撃に悠理が固まっていると、清四郎は、困ったように微笑んだ。
 「寝ぼすけお嬢さん。まだ眼が醒めませんか?」
 「え?え?え?え?」
 「それとも、寝惚けた振りをして、僕を誘っているのですか?」
 今度は、くちびるに、軽いキス。
 その感触は、夢の中で味わったものと同じだった。
 「・・・えええ!?」

 蕩けるように甘い男の笑顔に、悠理は、昨夜の夢が夢でないことを知った。




 「酔っ払った女を玩具にするなんて、お前も悪い男だよな。」

 「酔っ払うたびに男の純情を弄ぶお前も、ずいぶん酷い女ですよ。」
  
 その後、二人はベッドの中で、何度もそう語り合って、笑った。



 酒が取り持った縁は、仲間たちの手により、二人の挙式披露宴で、世間に暴露されることとなるのだが、それはまた、別のお話。

 



おわり。

  

 

「Bee’s Room」
Material by Abundant Shine  さま