-sorcier-
不自然なのは分かっていたけれど、悠理は上を向いた。 だってそうしないと、涙が頬を伝ってしまう。
そんな自分が、嫌で。
美童を見ていると、いつも不安だった。 うんざりするほどに、美童はモテるから。 そんなことを考える自分が、ずっと嫌だった。
美童と付き合っていた訳でも、想いを伝えたわけでもない。 だけど、この気持ちは、ずっと悠理の中にあった。 その想いとの、完全なる別れ。
美童を意識し始めたのと同時に、この恋には終止符を打った筈だった。 友人としてこれでは、もし、仮に恋人になったとしても、心臓が持たないと思ったから。
だけど、こんなに苦しい。 楽になりたくて、想いを伝えることを諦めた。それなのに、なんだか矛盾している、と悠理は思う。
――あいつの肩から落ちる、さらさらとした金髪も、優しい青い瞳も。すべてがあたしのものにならないなら、いっそ欲しがらなければ良かった。
今日悠理は、美童と野梨子が付き合っているのを知った。
ヒールの爪先が、親指に食い込む。 美童に会えるから履いた、慣れない靴。 自分らしくない甘ったるい香水の匂いに、顔をしかめる。 全身にまとわりついている匂いに、お前は浅ましいと言われている気がして、泣きたくなった。
歩きなれないヒールを履いて、心を偽って友人を祝福した。 ――馬鹿みたいだ。
自分が、ひどくつまらない人間に思えた。 悠理の足は自然と、繁華街に向かう。
――なんでもいいから、喧嘩をするか、べろべろに酔っ払うか。
そんなことを考えながらひとり歩いていると、肩に手が置かれた。 美童と同じ、香水の匂いが香る。
「ひとり?暇ならこれからどっか行かない?」
美童じゃなかった。
――人がこんな気分の時に、ナンパかよ。
なれなれしいその態度に、心底腹が立った。 八つ当たりだと分かっている。だけど、この苛立ちを留める術を、悠理はたったひとつしか知らない。
――ちょうどいいや。むしゃくしゃしてたとこなんだ。
息を大きく吸い込んでから、右肩に置かれた背後の男の手を左手で掴み、振り向きざま思い切り捻り上げる。
「汚ねぇ手で触んな!!」
「ぎゃあ!!」
男の叫び声がした。 清四郎が振り向くと、ついさっきまで、仲間と一緒に飲んでいた悠理がいる。
珍しく頭が痛い、といって途中で抜けていった彼女が心配で、薬を調合してやろうと、後を追いかけてきたのだけれど。
とりあえず止めたほうがよさそうだ、と清四郎は思った。
清四郎と悠理は、目の前の店に入った。
「頭、痛いんじゃなかったんですか?」 「ん…」
悠理はグラスに口をつけ、言葉を濁した。
「悠理らしくないですよ。あんな弱そうなやつを相手にするなんて」
ふん、と悠理は笑う。
清四郎は自分のグラスを持ち上げたが、悠理は正面を向いたままだ。
「美童のこと、まだ好きなんですか」
悠理は一瞬びくりと身体を震わせた。 ふう、と清四郎はため息を吐く。
「お前こそどうなんだよ」 「どうって?」 「野梨子と、付き合ってたろ」
悠理がちら、と清四郎を見た。
清四郎と野梨子は高校を卒業する少し前から付き合っていた。 いつも2人一緒に歩く姿は、幼稚舎の時から見知っていたし、周囲もそれが当然だと思った。
清四郎と野梨子が付き合い始めた時。
悠理は、以前に自分と婚約していた清四郎が、本当に剣菱目当てだったということが決定付けられたように感じた。 こんなこと、とうに分かっていたことだと、必死で自分に言い聞かせた。 女として求められるのは、美しく思慮深い野梨子。悠理には財産と親の権力だけが取り柄で、自分そのものに価値がない。 そう、言われたような気がした。
そのことで野梨子を妬んだことはない。 だけど、野梨子の顔を見るたび、胸が苦しかった。
しかし付き合って数ヶ月で、清四郎と野梨子は別れた。
「あれは恋愛じゃなかったんですよ。恋愛をするには、僕らは一緒に居すぎた」
「…そーなんだ」 悠理は、カウンターに肘をついて清四郎を見た。
「僕らは、まだまだ子供でした。他の世界に出て行くのが、怖かったんですよ」
「怖かったぁ!?お前が?よっく言うよ」 くっくっく、と悠理は笑った。
「コラ、笑うな。本当ですよ。大学に行けば、仲間たちとつるんでいられることも少なくなるでしょう?だから心のどこかで不安だった。それを手近な所で解消しようとしたんです、僕らは」
―――今更付き合うといっても、あまり変化がなくて。焦りも無い代わりに、ときめきもないんですの。わたくしたちのしているのは、恋愛ではないのですわね、きっと。まるで兄妹か、老夫婦のよう。
いつだったか、野梨子がそう話していたのを、悠理は思い出した。
6人揃って聖プレジデント大学に進学して。 魅録と可憐は、大学を卒業してすぐ婚約し、今は結婚1年目だ。
「お前、いつから気付いてたんだよ」 「なにがですか」 「…あたしが、美童を好きなこと」
カラン。
悠理の持っているグラスの中の氷が、音を立てる。
「大学入ってすぐ位ですかね。美童が女性と携帯で話しているの、じっと見てたでしょう?」 清四郎は悠理の方を向き、悠理を見つめた。 「…スルドイな、お前」 ははっ、と乾いた笑いが響く。 「その頃だよ、あたしが美童を意識しだしたの」
悠理は寒い、と呟いて、腕をさすった。
「あいつ、すごい優しいだろ。まぁ、誰にでもなんだけど」
「そうですね」
「あいつと歩いてるといつも女の視線感じた。視線の中に殺気すら感じたことあったんだ。ああ、この中の誰か、過去に美童を関係しててもおかしくないなって思ったら、気が狂いそうになった」 悠理は自分の肩を抱く。 「苦しかったよ、すごく」
コン、と悠理がグラスをテーブルに置く。 視線はまだ、正面を向いたまま。
「…あたし、最低だな。親友二人が付き合いだした日に、こんな話してるなんて。野梨子、あんなに嬉しそうだったのに」
悠理はカラになったグラスをぐるぐると回していたが、思いついたように中の氷を口にいれた。 がりり、という音がする。
「寒いんじゃなかったんですか」
今、目の前にいる悠理は、少し凍えているようだ。寒いのに氷なんか齧っているのだから当然だが。
清四郎は自分のジャケットを、悠理の肩に羽織らせた。
「泣いても、いいんですよ。ずっと辛かったんでしょう?」
そう、清四郎が言った途端。
悠理が前かがみになってテーブルに肘をついた。 拳に口を当てて泣く姿が、あまりにも頼りなげで寄る辺無くて。
清四郎は悠理の肩に手を伸ばした。 そのまま肩を引き寄せ、頭を撫でる。
腕の中で泣く悠理は、本当に悲しそうだ。 眉根を寄せて、何かに耐えるように泣く。
ふわふわの髪が小刻みに震えた。 寒くて悲しい、と。そう、悠理が言っているような気がした。 清四郎は、悠理を開放したいと思った。 彼女を締めつけているものから。
そう思った瞬間、清四郎の手は動いていた。 悠理のあごを持ち上げ、軽く上を向かせて唇を近づける。
唇は、塩辛かった。
涙の味だ。
悠理の頬から伝わる、湿った体温が愛おしい。 その涙も、なにもかもが。
ゆっくりと清四郎の顔が離れる。
ぱちぱち。 一瞬何が起こったのか分からず、悠理は瞬きをした。 キスそのものより、キスをしたときの清四郎の顔が、真剣だったので驚いた。
「…なんでこんなことすんだよ」
「お前が、そんな悲しそうに泣くからですよ」
清四郎は澄ました顔で、ギネスビールを飲んでいる。
「目の前で女が悲しそうに泣いてりゃ、誰にでもこーいうことすんのか?」 涙を拭いながら、悠理が言う。 「こんなことをしたのは初めてなものでね。そう言われてもなんとも答えようがありませんな」 「じゃあ例えば、これが可憐なら?おんなじことしたか?」
「悠理」 「なんだよ」
「ここ、出ませんか?夜の風に当たりたくなってきました」 目の前の、いつもと変わらぬ清四郎の笑みに。
悠理も、どうでもよくなってきた。
歩きながら悠理は、上を向いて深く息をした。 まるで、白い雲を口から出しているみたいだった。
「どうしたんですか?」 清四郎が聞いた。
「月を、吐き出してんだ」 悠理は、上を向いたまま答える。
「月を?」 訳が分からず、清四郎も悠理に倣って上を向いた。 夜空には、白くてうすっぺらな月が、ひらりと浮かんでいる。 成程、今悠理が吐き出した息と同じ色だ。 果物を思わせる月。
「知ってる?清四郎」 清四郎が顔を悠理に向けても、悠理は相変わらず上を向いている。
「月は、地上にいるあたしらの吐き出すいろんな感情で出来てんだよ」 「・・・酔っ払ったんですか?」 清四郎が聞くと、悠理は笑った。
「いろんな感情って、失恋の痛みとか?」 清四郎が聞くと、悠理は小さく、そう、と呟いた。
少し歩くと、公園があった。 「酔っ払ってこういうとこで遊ぶの、好きなんだ」 そう言いながら、悠理はジャングルジムの方へと駆けていく。
「子供ですね。悠理は」 清四郎はブランコに立ち、ゆるく漕いでいる。
「お前もだろ」 くすくすと、笑いながら悠理が言う。
「…そうです。僕も子供です」 清四郎は、ジャングルジムの上の悠理を見上げた。
「美童のことにこだわるあなたを見ると、どうしようもなく苦しい。まるで自分の好きなものを取られた少年のように、いてもたってもいられない」
悠理は、清四郎を見下ろした。 清四郎の笑みは、いつもどおりだったのだけど。 その表情の裏に、真剣な想いが秘められているように見えたのは、気のせいだろうか?
きっと清四郎に魔法を掛けられたのだ、と悠理は思う。 この男は魔術を操る位のこと、朝飯前だろうから。
なんて似合うんだろう。清四郎に黒マント。そしてヤギの角を付けて、なんでも思いのまま。普段は箒だが、今はブランコに乗っている。 こんなことを考える自分は、紛れもなく酔っているんだろうけど。
「美童のことは、忘れてしまえばいいんですよ」 まただ。 また、この男は口から魔法の言葉を吐き出す。 悠理を解き放つ、呪文。
「悠理、さっき、目の前にいたのが可憐だったら、僕が可憐にキスするのか知りたがってましたね」
悠理はなんだか、聞きたくないような気がしてきた。 あのとき泣いていたのが可憐でも、清四郎は同じようにしたかもしれない。 もしそうなら、どうしたらいいのだろう?と思う。
「いいよ、聞きたくない」 悠理はジャングルジムの頂上目指して、勢いよく登りだした。
「悠理、目の前にいたのが可憐だったら、僕はあんなことしません」
だから、清四郎がそう言った時、悠理は足を滑らして落ちそうになった。
顔を赤らめ、頭を掻く。 「…えーと。こういう状況に慣れてないんだけど。こういうときは礼を言えばいいのか?」
清四郎は、ぷ、と噴出した。 「照れてるんですか?」
悠理の顔が、見る間に真っ赤になる。 「な、おま、やっぱりからかってたのかよ!!」
清四郎はブランコから飛び降り、悠理のいるジャングルジムに登る。 棒をつかみ、イタズラっぽい目つきで悠理を見上げた。
「からかってませんよ。本気だ、と言ったらどうします?」
「なにがだよ!?」 悠理は一歩、後ずさった。
「なぜお前が美童を好きなことが分かったのだと思います?お前をずっと目で追っていたからですよ。お前が美童の笑顔を見つめているのも、美童が他の女性と話しているのを切なそうに見ていたのも、全部知っています」
言いながら、あっという間にジャングルジムに登った清四郎は、悠理の隣に腰掛ける。 悠理は無言だ。
「それから、美童のいない隙に、美童の携帯を窓から放ろうかどうしようか迷っていたのもね」 悠理は、真っ赤になった。清四郎は悪魔の笑みを浮かべている。
「悠理」 「なんだよ」
「高校の頃、僕が数学を教えていた時、この公式は試験に絶対出るから覚えとけって散々言ってあったのに、悠理は忘れていて、1点足りなくて赤点になったことがあったでしょう?」
悠理は、あからさまに嫌な顔をした。舌をべぇ、と出す。 「…嫌なこと思い出させんなよ。お前って本当ヤなやつだな。関係ねーだろ、今そんなこと」
笑うかと思ったのに、清四郎は真面目な顔をしている。
「あれだけ覚えておけと言った公式は忘れるのに、美童のことを忘れられなくて泣く。僕はどうしたらいいのか分からないいんですよ。難しくて嫌いな公式みたいに、美童のことは忘れてしまえばいいんです。美童のことを嫌いになれっていうんじゃない。でも、そんな痛々しい悠理は見たくないんですよ。お前には笑っていて欲しい」
悠理は、清四郎の顔の前に手をかざし、ストップ、のポーズを取った。 「ちょっと待て。お前、もしかしてあたしのこと好きなのか?」
――遅いんですよ、気付くのが。
はぁぁぁ、と盛大なため息を吐きたくなるのを堪えて、清四郎はにっこりと笑った。
「賢いですね。よく解けました」 手を伸ばして、悠理の頭をぽふぽふと撫でる。
「あたしは犬じゃないぞっ。褒めるな、撫でるな!!」
くすくすと、清四郎は笑った。 その笑顔に、悠理ははっとした。
清四郎が、なんだか可愛く見える。
「悠理」 「なんだっ」
「こうしてお前と笑っていたいんです」
言いくるめられた気もする。 この魔法使い、いや、悪魔に。 でも、こうして笑っていたいのは、悠理も同じだ。
「それもいいな」
悠理の心に、柔らかなものが満ちる。 欠けた三日月が、時が満ちれば満月になるように。 清四郎が、心の中に満ちてくる。
この先、気持ちがどう変化するのかなんて、分からない。 でもそれは、幸せな予感。
月明かりが、すべてを照らす。 揺れているブランコも、2人の登っているジャングルジムも、小さな滑り台も。
何もかもを、優しく包み込むように。
FIN 私は、タイトルを付けるのが大の苦手でして(汗)。タイトルは、フランス語の辞書片手にがんばって付けました(笑)。魔法使い、とか、悪賢い人間という意味で、悠理が美童に恋している間、それをじっと見てて、虎視眈々と狙っている清四郎のイメージです。麗さま、こんな話を引き受けて下さり、ありがとうございます。読んで下さった方にも、感謝を。ありがとうございました!
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Material by Abundant Shine さま